無印都市の子ども

ポップカルチャーの極北

午前3時の熱く炊けたおにぎりから

f:id:shiomiLP:20191007162542j:plain

家族が寝静まった真夜中に、静かに階段を降りてリビングに向かう。明かりもつけないまま、大きな冷蔵庫ーーパナソニック社製であるーーを開き、やさしい光の中からラップで包んだ昨日のおにぎりを取り出す。おにぎりは電気レンジの中で橙色の明かりに照らされながら、炊飯器で炊かれたときのことを大切に思い出すようにゆっくりと廻る。「電気レンジは輪廻だ」とか思ってしまうくらいに、その頃の自分は思春期特有のこじらせ方をしていて、そして今でも冷蔵庫はタイムトラベラーだと思っている節がある。

 

10代の頃、学校にも行かず、ただ死んだように生きていた時期があって、当然のように昼夜逆転した生活を送っていた。いや、生活とも呼べないような堕落したものだった。夜明けとともに眠ったり、夕焼けで橙色になった部屋の中で目覚めたりしていた。そんな生活リズムで過ごしていると、家族と暮しているのに家族といっしょに食事をとる機会はどんどん減っていく。当時の自分は今よりずっと馬鹿だったので、そのことに対して何かを危惧する気持ちは1mmも芽生えていなかった。

幸か不幸か、食べても太らない体質だった。真夜中にひとり自室で、当時好きだった若手女優のCM集なんかをYouTubeで観ながら、大量のスナック菓子をぼりぼりと食べてしまう生活習慣がついてしまっていた。甘いお菓子が好きだった。今でも好きだ。だけど、それだけで健康を維持することはできない。満たされない腹を膨らませたくて、真夜中の冷蔵庫をゆっくり開いたところに、おにぎりはあった。

それは母が作った昨日の夕飯の残りで、食べてもいいと母は言っていたが、その言葉をぼくは軽く聞き流してずっとお菓子ばかりに手を伸ばしていた。大量のポテトチップスとチョコレートとコーラによって舌が馬鹿になっていたぼくは、冷凍されたお米の姿にあまり食欲が湧かなくて冷蔵庫に戻そうとしたが、そういえばおいしそうな味付け海苔があったんだと思い出して、それでおにぎりを食べることにした。

橙色の輪廻転生。前世の情熱を思い出したかのようにホクホクになってゆく白米たち。あ、やばい美味そうかも、と思いながら塩を振り、味付け海苔で巻いてゆく。冷たい麦茶を用意して、自室でYoutubeを再生しながらおにぎりを頬張った。

おいしい。ただただシンプルにおいしかった。そこには食べものとしての確かな実感があった。なるほど、これがエネルギーになるのか。ビバ炭水化物。ああ、パズーが一切れのパンで旅立つなら、ぼくは一握りのお米を抱えて旅に出よう。桃太郎がきびだんごで仲間を引き連れていくのなら、ぼくはおにぎりで世界を救おう。ちょっと意味のわからない妄想が広がる。

引きこもり期間が長いゆえ、心がずいぶんと凝り固まっていたので、涙が出たりとかはなかった。でも、確かに何かが動いたような気がしたことを、なんとなくだけど憶えている。そのことに自分自身で気づきながら、気づかないふりをして、極めてニュートラルな表情でYoutubeの次の動画をクリックする。散らかった自室のすみっこで、エンドレスに続く宮崎あおいのCM集を眺めながら、それでもなんとなく生きていけるような気がしていた。

 

 

まだ遠い夜明けに向かって、誰もいない暗闇の台所でひとり、昨日のおにぎりを握る。そのシチュエーションはあまりにも絵にならないし、こんなところに書くのは恥ずかしいくらいみっともない生活であったかもしれない。炊き立てのお米を頬張るあたたかな家族団欒とは真逆の、間違ってもCMにはならないような日陰のシーン。だけど、そういう夜は、この世の中のどこかに今も確かに存在している。真っ暗だから多くの人は知らないだけかもしれない。そういうぎりぎりのところに生きている人はたぶんこの国には結構いて、何かを取り戻すようにおにぎりを電子レンジに放り込んだり、誰かを弔うように冷たいごはんをひとりぼっちで食べたりしている。

 

「夜明け前がいちばん暗い」なんてのは、夜明け前しか知らない奴らによる幻想的な嘘でしかなくて、夜はずっと暗いものであるとぼくはこっそりと告発しよう。

終わりがないように思える暗闇は、いいことはあまりないけど、しかし悪いことばかりでもない。たとえば「真夜中のお米がいちばん輝いている」なんてのは、ぼくたちだけが知っているちょっとした世界の神秘。それはちょうど、冬の大都会の夜景が美しいことと、ほとんど同じ類いの輝きなのだと思う。

<了>

 

パナソニック炊飯器「Wおどり炊き」×はてなブログ特別お題キャンペーン #わたしの推し米

パナソニック炊飯器「Wおどり炊き」×はてなブログ特別お題キャンペーン
by パナソニック

かが屋のコントとその文学性について

f:id:shiomiLP:20190906121712j:image

お笑い第七世代という言葉で一括りにされる中で、一際大きな才能を感じるのが“かが屋”のコントだ。

彼らのネタは、他のコント師たちのネタと比べて一体どこがどう違うのか。そこんところを少しだけ書きたい。

 

 

通常、コントというものは「物語の導入」から始める。例えばハンバーガー屋のコントをするのならハンバーガー屋に入店するところから始めるのがベターであるし、転校生のコントをするのなら転校生が登場する前に「今日は転校生を紹介するぞ」という先生の告知から始めるのがセオリーだ。

しかし、かが屋のコントはそういった物語の導入をこしらえない。彼らのコントはいつだって「シーンの途中」から始まる。

 

このコントの始まりは、すでにお互いにいくつかのなぞなぞを出し合ったあとから始まる。「暇だし、なぞなぞとか出し合わね?」というような物語の導入はこしらえない。物語の基本とも言える《起承転結》の《起》が描かれていないわけだ。

彼らの発する言葉には、登場人物の関係性や状況を説明するようなセリフ(いわゆる説明セリフというもの)は存在しない。説明されないままにさらっと始まったコントの中で、彼らの言葉尻や立ち振る舞いを手掛かりに観客たちはコントの状況を徐々に察してゆく。つまり、観客たちがあらかじめ欠落した《起》を想像していくことで、知らず識らずの内にかが屋の空気感を掴まされていくように仕掛けられている。

 

このように始まりが欠落しているコントは、たとえ終わりが欠落していても観客にストレスは生じない。始まりらしい始まりから始まらないので、オチらしいオチがなくても締まるというわけだ。

前述したハンバーガー屋の例で言えば、入店から始まったストーリーは退店(もしくはお会計)まで済ませないと物語として締まらない。しかし、入店から始まっていなければ、退店まで描写していなくてもそこに不自然さは生じない。

かが屋年金問題ネタにおける「目ぇ見ぃ」は光り輝く至極の一言ではあるが、彼らにとっての年金問題が解決した言葉ではないし、彼女が改心する言葉までは描けていない。だがそれでいい。起承転結の《転》、つまりコントの絶頂であるクライマックスで幕を下ろすことができる。

 

《起》や《結》といった手続きを行わないことによる利点はさらにもうひとつある。

それは、かが屋が本当に描きたい部分にネタの時間を使うことができるという点だ。本当に描きたい部分ーーそれは一瞬の感情の揺らぎであり、常識から半歩ズレた情景の切り取りのことである。

それらを丁寧に描いていくからこそのかが屋である、ということについては誰もが認めるところであろうから、彼らにうってつけのコント形式であることには疑いようがない。

おそらく計算してこのコント形式にしたというよりは、自然とそうなったという感じなのではないかと推測する。そして自然に必然なものを選びとってしまうことを、たぶん世の中ではセンスと呼ぶんだと思う。

 

 

まとめる。

多くのコント師が登場から退場までのワンシーンすべてを見せる形態のコントを採用しているのに対して、かが屋はすべてを語ろうとはせずに感情の揺らぎを摑まえるコントを行う。前者が短編小説のような「物語」だとすれば、かが屋のコントは「俳句」や「短歌」といった表現に近いと言えるだろう。つまり、かが屋はコントを(物語的に)語るのではなく、コントを(俳句的に)詠んでいる。

どちらが上でどちらが下かという話ではない。かが屋のコントが他のコント師の作品に比べて何か一線を画す印象を受けるのは、つまりこういうところに由来するのではないかという考察だ。

〈了〉

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

 
図解いちばん親切な年金の本 19-20年版

図解いちばん親切な年金の本 19-20年版