無印都市の子ども

ポップカルチャーの極北

『ドラえもん』のび太たちがガスを吸引して“しあわせな気持ち”になる話について

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ドラえもん』の第25巻には「ヘソリンガスでしあわせに」というエピソードが収録されている。概要はこんな感じである。(※無論ネタバレなので、それが気になる人はコミックスを読んでください)

 

ある日、いくつもの災難を同時に被ったのび太は、家に帰るなりグッタリし「世の中まっ暗だあ。 いますぐ世界のおわりがくればいい」と普段よりもいっそう深く落ち込んでしまう。

見かねたドラえもんは逡巡しながらも、あるひみつ道具のび太くんに授ける。それは「ヘソリンガス」といって、ヘソからガスを送り込むことで心や体の痛みを消すという代物だった。ガスを吸引したのび太はさっきまでの憂鬱な感情をきれいに忘れて「しあわせな気もち!!」と万歳する。

殴られても車に轢かれても平気な顔をしているのび太の様子を不審がったジャイアンスネ夫は、ヘソリンガスの存在を突き止め、「ひとりじめするなんてずるい!」と空き地に持ち出し、1回10円でみんなに提供することを提案する。

町の子どもたち(ジャイアンスネ夫はもちろん、しずかちゃんまで)がガスを吸引し、みんなあらゆる類いの痛みや悲しみを忘れてしあわせな気持ちになる。

「ほんとだ!すごーくしあわせな気もち!!」

「おやじにしかられたって、それがどうした!」

「ひかり号にはねられても、いたくないよな」

「東京タワーからとびおりても、へいきだよ」

しかし、ガスの効き目は30分間で切れる。その際の痛みのリバウンドが激しいため、みんなが30分おきに10円を支払って何度もガスを吸引しにやってくる。中毒化しているため誰もやめることができず、ある者は母親の財布を持ち出してくる始末。

外出から家に戻ったドラえもんが事態を知り、青ざめた顔でのび太に事の深刻さを説く。

「あれはおそろしいガスなんだぞ!!いたがるってことは、だいじなことなんだ。危険をしらせる信号なんだ。たとえば、火の熱さにへいきだったらやけどする。ひどい病気にかかっても、しぬまで気がつかない。心のいたみだってそうだぞ。しかられても笑われてもへいきなら、どんな悪いことも…。」

ガスを吸って気持ち良くなっているのび太は、部屋で寝っ転がりながらドラえもんの説教を「それがどうした」の一言で蹴散らしてしまう。しかし、吸引したガスが切れたことでのび太は自分はとんでもないことをしでかしてしまったと罪悪の痛みを感じはじめる。ドラえもんと同じように青ざめながら、ふたりは急いで空き地へとヘソリンガスの回収に向かう。

空き地に到着し、ドラえもんのび太がヘソリンガスを撤去しようとすると、ガス中毒の子どもたちがそれを拒む。ドラえもんは子どもたちの苦手な学校の先生やジャイアンのママを呼び出すが、痛みを感じない中毒者たちには彼らの声も届かない。

打つ手立てがなくて困っていると、何度もガス吸引を繰り返したヘソリンガスがガス欠を起し始める。ドラえもんはそのヘソリンガスに別のガスを補充することで問題を解決する。ドラえもんが代入したガスとは、痛みに過敏になるという効果のあるものであった。そのガスを吸引したジャイアンスネ夫は、降ってきた小雨にさえ「いたいいたい。雨のつぶがいたい。」と泣き叫ぶほど過敏になってしまい、その滑稽な姿がこのエピソードのオチとなる。

 

 

ドラえもん』にはやべえ話がいくつも存在するが、「ヘソリンガスでしあわせに」はその中でもっともおそろしいエピソードのひとつだ。

麻薬や覚醒剤を彷彿させるこのエピソードは、ウィキペディア曰く1979年に『てれびくん10月号』に掲載された。ちなみに『てれびくん』の読者対象は、未就学児から小学校低学年である。

 

あらためて言うまでもないが、ドラえもんとは少年漫画であり、全年齢対象の作品である。

きっと幼い頃のあなたもそうであったように、子どもの頃に触れる物語はその子の価値観や正義観の形成に大きな影響を及ぼす。世界をどう認識するか、という大きな方向性がそこで決まると言っても過言ではない。

たとえば「廊下を走るな!」という張り紙や先生の怒鳴り声よりも、「廊下を走ることでどんなことが待っているか」を目の当たりにするほうがずっと説得力があるとぼくは考えていて、それはフィクションだからこそ展開できる「あったかもしれない世界」が担う大きな役割のひとつであると思う。

そして、それが大人の説教にはならずに、エンタメとして昇華されている点が『ドラえもん』が名作たる所以なのだろう。どこかの知らないだれかの話ではなく、ぼくらのよく知っている町の、こころやさしいメガネの少年に降りかかってくる悲劇だからこそ、このエピソードは強度をもっている。

 

ちなみに、このエピソードはなぜかTVアニメ化はされていないそうだ。麻薬や覚醒剤を彷彿させるからだろうか。子どもから麻薬や覚醒剤を遠ざけることと、このエピソードをTVで流さないことは、果たして同じ方向を向いていると言えるだろうか。

こういうものを、昔だからできた、今は無理、みたいな話にはしたくないなあと、個人的に願うばかりだ。

 

<了>

ドラえもん (25) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (25) (てんとう虫コミックス)

 

この第25巻にはかの有名な「のび太結婚前夜」や、のび太が自力でテスト100点満点をとるものの誰も評価してくれないというエピソードなどが収録されており、個人的に好きな巻です。表紙のドラちゃんもかわいいし。おすすめです。

今週のお題「好きな漫画」

かが屋のコントとその文学性について

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お笑い第七世代という言葉で一括りにされる中で、一際大きな才能を感じるのが“かが屋”のコントだ。

彼らのネタは、他のコント師たちのネタと比べて一体どこがどう違うのか。そこんところを少しだけ書きたい。

 

 

通常、コントというものは「物語の導入」から始める。例えばハンバーガー屋のコントをするのならハンバーガー屋に入店するところから始めるのがベターであるし、転校生のコントをするのなら転校生が登場する前に「今日は転校生を紹介するぞ」という先生の告知から始めるのがセオリーだ。

しかし、かが屋のコントはそういった物語の導入をこしらえない。彼らのコントはいつだって「シーンの途中」から始まる。

 

このコントの始まりは、すでにお互いにいくつかのなぞなぞを出し合ったあとから始まる。「暇だし、なぞなぞとか出し合わね?」というような物語の導入はこしらえない。物語の基本とも言える《起承転結》の《起》が描かれていないわけだ。

彼らの発する言葉には、登場人物の関係性や状況を説明するようなセリフ(いわゆる説明セリフというもの)は存在しない。説明されないままにさらっと始まったコントの中で、彼らの言葉尻や立ち振る舞いを手掛かりに観客たちはコントの状況を徐々に察してゆく。つまり、観客たちがあらかじめ欠落した《起》を想像していくことで、知らず識らずの内にかが屋の空気感を掴まされていくように仕掛けられている。

 

このように始まりが欠落しているコントは、たとえ終わりが欠落していても観客にストレスは生じない。始まりらしい始まりから始まらないので、オチらしいオチがなくても締まるというわけだ。

前述したハンバーガー屋の例で言えば、入店から始まったストーリーは退店(もしくはお会計)まで済ませないと物語として締まらない。しかし、入店から始まっていなければ、退店まで描写していなくてもそこに不自然さは生じない。

かが屋年金問題ネタにおける「目ぇ見ぃ」は光り輝く至極の一言ではあるが、彼らにとっての年金問題が解決した言葉ではないし、彼女が改心する言葉までは描けていない。だがそれでいい。起承転結の《転》、つまりコントの絶頂であるクライマックスで幕を下ろすことができる。

 

《起》や《結》といった手続きを行わないことによる利点はさらにもうひとつある。

それは、かが屋が本当に描きたい部分にネタの時間を使うことができるという点だ。本当に描きたい部分ーーそれは一瞬の感情の揺らぎであり、常識から半歩ズレた情景の切り取りのことである。

それらを丁寧に描いていくからこそのかが屋である、ということについては誰もが認めるところであろうから、彼らにうってつけのコント形式であることには疑いようがない。

おそらく計算してこのコント形式にしたというよりは、自然とそうなったという感じなのではないかと推測する。そして自然に必然なものを選びとってしまうことを、たぶん世の中ではセンスと呼ぶんだと思う。

 

 

まとめる。

多くのコント師が登場から退場までのワンシーンすべてを見せる形態のコントを採用しているのに対して、かが屋はすべてを語ろうとはせずに感情の揺らぎを摑まえるコントを行う。前者が短編小説のような「物語」だとすれば、かが屋のコントは「俳句」や「短歌」といった表現に近いと言えるだろう。つまり、かが屋はコントを(物語的に)語るのではなく、コントを(俳句的に)詠んでいる。

どちらが上でどちらが下かという話ではない。かが屋のコントが他のコント師の作品に比べて何か一線を画す印象を受けるのは、つまりこういうところに由来するのではないかという考察だ。

〈了〉

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

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