無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

飛行できない君と僕のために - 『メアリと魔女の花』の感想

 

メアリと魔女の花』を観てきた。

スタジオジブリ解体後に設立された「スタジオポノック」の第一回長編作品。監督は『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』の米林宏昌

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なお、この記事は、映画の決定的なネタバレを含まないように努力して書かれているが、気になる人は気をつけて。

 

魔女、ふたたび。

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このブログ記事の前置きがそうであるように、「スタジオジブリ」の名前を出さないことには、この映画を説明することはできない。

メアリと魔女の花』を観ようと映画館に足を運ぶほとんどの人が、ジブリ解体の顛末やポノックの成り立ちまでを踏まえた上で鑑賞するだろう。観客がある種の先入観を持ったまま鑑賞することを、制作側(ポノック)は拒否せずに、あえてその状況を逆手に取るような戦略をとっていることが僕にはとても好印象だった。

その戦略を象徴するのはやはり「魔女、ふたたび。」というキャッチコピーだ。ジブリ出身者の米林宏昌監督が魔女を描けば、宮崎駿監督の名作『魔女の宅急便』とどうしようもなく比較されてしまう。ならば、あえてそのことを強調してしまおうっていう技巧。

 

その戦略は広告だけに留まらず、映画本編の中においても、あえてジブリの記号を随所に散りばめているように思えた。あ、草むらで不思議な小動物を追いかけている姿はメイだ、冒頭はシータとムスカだ、生命大爆発みたいな画はポニョ的だね、自転車に乗るいけ好かない男の子と並行して歩いてるメアリなんてどう見てもキキやん!みたいな感じで。(もっとたくさんある)

あえて偉大な先人と映像的なイメージを重ねることで、ジブリとは異なる解を物語を通じて導き出した時に「あぁジブリとは全く別物である」ということを強く印象付けることができる。

鑑賞後に「いろいろとジブリっぽいけど決定的なところでジブリとは異なる」という後味を観客の頭に残すことができれば、この戦略は成功と言えるだろう。そう考えると「魔女、ふたたび」というコピーの素晴らしさを改めて思い知る。すげえ。

 

 

冒頭飛行

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冒頭のシーンが良かった。スピード感があるし、意味深な美しき閃光(夜間飛行)、映像表現・演出の技術はやっぱりすごく高いんだなと改めて思った。

良かったからこそ、冒頭シーンはもっと贅沢に時間を使ってもいいんじゃないかとも思った。アリエッティやマーニーからは想像もつかないスペクタクルなオープニングに「米林さん今回はちょっと違うんじゃねえか…!」と期待させられる。

 

 

文明か、新興宗教

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脚本は正直に言って酷いものであったかもしれない。現世の老人たち、魔法界の面々、登場人物それぞれの背景にどのような物語があるのか、全く見えてくることはなく、主役であるメアリとピーターすらぼんやりとした印象だけが残った。

問題を解決するためにメアリが唱える呪文の内容についてだとか、チェーホフの銃問題だとか、ラストシーンで「それわざわざセリフにするなよ……」と思ってしまうような野暮ったさとか、脚本やセリフ演出の粗を探せばキリがない。

 

まぁそれはいろんな人が指摘するだろうからいいとして、僕が気になったのは魔法大学の建築とデザインだ。

例えば『千と千尋の神隠し』に登場する異世界、『ハウルと動く城』の城。宮崎駿作品には、建築物から扉一枚、ランプ一つのデザインに至るまで、それがその形状であるべき必然性があり、そこの住人が普段どのようにそれを使用して生活を営んでいるかについてまで設計されていることが観ていて想像できる。だから、そこに暮らす人たちの「生活」が視えてくるし、その世界の全体を見渡した時に、ひとつの「文明」が立ち上がってくる。

メアリの魔法大学の建築物にはそういうものがない。この世ではない異世界であるということを演出するためだけのデザインでしかない。そこに暮らす生活者たちの日常は見えてこないし、文明もない。だからあれは、ただヘンテコなだけでしかなく、「新興宗教」の建築物のようにしか僕には見えない。

 

ここまで書くと分かってしまうだろうけど、最初の方に書いた「ジブリっぽいけど決定的なところでジブリとは異なる」というような後味を観客の頭の中に残すことに成功しているとは言い難い。というより、そういう次元の話ではなかった。

あと、個人的な要求としては、魔法界と現世を具体的な「結界」で結んで欲しかった。マーニーの時の「海」はとても良かったし(潮が引いている時は境界として機能しないなんて最高だよね)、今作も町と森の境界はちゃんと象徴的に在ったのに、魔法界と現世はぼんやりしていたように思える。児童文学を下敷きにする米林監督だからこそ、そこに意識がいってしまう。

 

 

<夜間飛行>

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<夜間飛行>という花が持つ不思議な力によって、メアリは魔女になり、箒に乗ることができる。魔力は数時間で切れてしまうため、メアリが魔女でいられるのは夜のあいだだけ。夜のあいだだけは、箒で空を空を飛べる。つまり、夜間飛行。

 

映画『メアリと魔女の花』は、ドキドキとワクワクに満ちたエンターテイメント作品を目指します。それは一方で、これからの時代を生きていく子どもたち、20世紀の魔法がもはや通じない世界で生きる僕たち自身の物語だと思っています。

メアリと魔女の花』公式HP 「監督からのメッセージ」より引用

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<夜間飛行>というアイテムと米林監督のメッセージを踏まえて、僕は2016年の小沢健二のライブツアー「魔法的」を思い出した。

「魔法的」というツアータイトルは「魔法っぽいけど魔法ではない」という意として僕は受け取っている。そのツアーでは、ライブの最後に彼が「日常に帰ろう」と言い残して姿を消す。そこでライブが終わる。

つまり、ライブのあいだだけは「魔法的な何か」を魔法なのだと偽り、観客に2時間だけの魔法をかける。そして最後には魔法を解いて、日常に観客を還す。

彼はそのツアーの中で『飛行する君と僕のために』という新曲を発表した。魔法があれば空だって飛べる。ライブの夜だけは、彼の疑似魔法にかけられて夜空を飛行することができる。しかしそれはずっとは続かない。不思議な魔法の花はいつまでも咲いているわけではないように。突然箒が力を失い、落下してしまうように。 

 

そして、『メアリと魔女の花』の主題歌『Rain』を歌うSEKAI NO OWARI*1は、その楽曲の歌い出しでこう告げる。

<魔法はいつか解けると僕らは知っている>

 

魔法はいつか解ける。魔女の花はいつまでも咲かない。飛行は突然できなくなる。

それを解ってしまった上で、それでも信じることのできる魔法とはどんなものなのか。

米林監督の言う「20世紀の魔法がもはや通じない世界」で、宮崎駿とは異なる魔法が生まれれば、それは発明だと思う。

この映画に新しい時代の魔法を見たとは思えないが、SEKAI NO OWARI小沢健二、<夜間飛行>にその糸口を見出すことはできそうな気がするし、何かが息吹き始めている手ごたえみたいなものが得たくて「魔法」「魔術」「呪い」に最近みんな熱心になっているんだと思う。

僕もその一人だから、米林監督が魔法使いの物語を描いてくれたことだけで割と満足している。米林監督が次回作もファンタジーや魔法使いの物語を描くとは思えないが、彼が偉大な先人の魔法を踏まえた上で、今信じられる魔法をかけようと、もがき続けるあいだは、ポノックの作品を追いかけようと思う。

<了>

The Art of メアリと魔女の花

The Art of メアリと魔女の花

 
スタジオポノック絵コンテ集 メアリと魔女の花

スタジオポノック絵コンテ集 メアリと魔女の花

 

 

*1:SEKAI NO OWARI小沢健二とも交流があり、2017年リリースの小沢健二の新譜『流動体について/神秘的』のCDには、ギターを借りた縁として「SEKAI NO OWARI」の名前がクレジットされている。

【カドフェス2017】『夏子の冒険』の書き出しは完璧だと思う。

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出だしよければ全てよし

書き出しは小説の命だ。そう主張する作家は多い。

物語の冒頭は、読者にとっても重要な部分で、買おうか悩んでいる本を本屋でぱらぱらと立ち読みをするとき、チェックするのはやはり書き出しだろう。

その書き出しの文章が良いものであれば、内容全体への信頼(きっとええ本やろな)にも繋がってそのままレジを持っていくこともあるだろうし、あるいは語彙のセンスや文章のリズムが自分の肌に合わなくて「あ、これは違うな……」と気付くことができたりする。

 

“文豪”と呼ばれるような著名な作家たちは皆、秀逸な書き出しを遺している。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。〉

〈国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。〉

〈恥の多い生涯を送って来ました。〉

最近では<ほんのまくらフェア>なんてのもあったように、人を惹きつけるような力のある書き出し文章は、広告のキャッチコピーのように作用し、物語への没入を喚起する。

作家が命をかける。それくらい大事なところだ。

 

 

角川文庫の<カドフェス2017>

今回の記事では、個人的に「あ、これすげえな」と思った書き出しを紹介しようと思う。

その小説は、三島由紀夫の『夏子の冒険』(角川文庫)だ。

夏子の冒険 (角川文庫)

夏子の冒険 (角川文庫)

 

 

金閣寺』や『仮面の告白』『潮騒』などの三島由紀夫作品に比べると、知名度が低いため、小さな書店では『夏子の冒険』を常備していないことが普段は多い。普段はね。

毎年夏に角川文庫が大々的に展開している文庫フェア〈カドフェス〉というのがあって、今年はそのフェアに『夏子の冒険』がリストアップされている。しかも特別限定カバーが用意されているほどの力の入れよう。なので、今年の夏に限って言えば、全国ほぼすべての書店で『夏子の冒険』を簡単に手に入れることができるだろう。

ちなみに特別限定カバーはこんな感じの装丁になっている。おっしゃれぇ。はいからぁ。

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夏子の冒険

『夏子の冒険』の書き出しの一文はこう始まる。

或る朝、夏子が朝食の食卓で、「あたくし修道院へ入る」といい出した時には、一家は呆気にとられてしばらく箸を休め、味噌汁の椀から立つ湯気ばかりが静粛の中を香煙のように歩みのぼった。

 

注目したいのは、この書き出しのたった一文に含まれている情報量の多さである。

たった一文だけで、場面の場所、登場人物、時刻、状況、空気感など、物語を始めるにあたって必要なものがほぼ全てで揃う。しかも、構成に無理のない、極めて美しいリズムで刻まれた文章で。書き出しとしては理想的、ほぼ百点満点ではないかと思う。

 

ここで判明している情報の多さを確認するために、5W1Hに当てはめて整理してみる。

いつ→或る朝

どこで→食卓で

だれが→夏子が

なにを→出家宣言を

どのように→唐突に

なぜ→?

 

或る朝、つまり一家にとってはいつも通りの朝。なんでもない日の朝であるからこそ、夏子の宣言の突然さが際立つ。何もないはずの日に、何かが起こるのだ。

最後の「なぜ」だけが記述できないのだが*1、それは物語を先に進めるためのフックなので、クエスチョンのままのほうが良いだろう。それに、発言した夏子以外の人物も、読者と同じようにクエスチョンなままであることが表現されている。つまり、夏子がその発言を「なぜ」したのかはわからないが、「夏子がその発言をなぜしたのか一家にもわからない」はわかる(一家のリアクションから読み取ることができる)。情報としては十分だ。

 

一家の手が停止した中で、味噌汁の湯気だけが立ちのぼる。それがあるだけで、読者の頭の中に浮かび上がってくる映像は静止画ではなく、時間の流れを感じさせる動画になる。

「香煙のように」という比喩も、その場の静粛さを際立たせている。普通、線香を焚いてはしゃぐ人はいないだろう。御墓参りに行けばその煙の前で、一家は黙って静かに手を合わせる。香煙は、どちらかといえば静けさを連想させるアイテムだ。

 

いろんな要素が詰まっていて、キャッチーで、それでいて洗練された無駄のない書き出し、僕は完璧だと思った。

たった一文だけで、場面の場所、登場人物、時刻、状況、空気感など、物語を始めるにあたって必要なものがほぼ全て揃う。しかも、構成に無理のない、極めて美しいリズムで刻まれた文章で。

 

 * * *

 

ちなみに、『夏子の冒険』は最後の展開も秀逸だ。

一家の前で突然出家宣言する夏子のかっこよさに「夏子いいな笑。」と思った読者は、物語の最後にまた「あぁやっぱり夏子いいな笑。」と思ってニヤけるだろう。*2

或る朝、夏子が朝食の食卓で、「あたくし修道院へ入る」といい出した時には、一家は呆気にとられてしばらく箸を休め、味噌汁の椀から立つ湯気ばかりが静粛の中を香煙のように歩みのぼった。

 

ぜひ店頭で手にとってここだけでも読んでみてほしい。きっとそのまま続きを読んでしまうだろう。

また、角川文庫「カドフェス」だけでなくそれと並行して展開されているであろう、集英社文庫「ナツイチ」、新潮文庫新潮文庫の100冊」といったフェアも、基本的にはずれのないラインナップだ。

ピンとくる本がなければ、書き出しだけを何冊も立ち読みするのも楽しいと思う。

 

そんなわけで、一応記事の最後にはいつものようにAmazonのリンクを貼るけど、こればっかりは書店で選んで買うのが良いに決まっている。

 

<了>

夏子の冒険 (角川文庫)

夏子の冒険 (角川文庫)

 

 

そういえば2年前に川端康成『雪国』の冒頭を考察した記事を書いたことを思い出した。

あらかじめ欠落した主語を空想する話。

*1:「どのように→唐突に」はそれでいいのかと言われると辛い。

*2:ちなみにちなみに、『夏子の冒険』は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の下敷きになった小説だと言われている。確かに読んでみると共通点は多い。