無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

かが屋のコントとその文学性について

f:id:shiomiLP:20190906121712j:image

お笑い第七世代という言葉で一括りにされるなかで、一際大きな才能を感じる“かが屋”のコント。

彼らのネタは、他のコント師たちのネタと比べて一体どこがどう違うのか。そこんところを少しだけ書きたい。

 

 

通常、コントというものは「物語の導入」から始まる。例えばハンバーガー屋のコントをするのならハンバーガー屋に入店するところから始めるのがベターであるし、転校生のコントをするのなら転校生が登場する前に「今日は転校生を紹介するぞ」という先生の告知から始めるのがセオリーだ。

しかし、かが屋のコントはそういった物語の導入をこしらえない。彼らのコントはいつだって「シーンの途中」から始まる。

 

このコントの始まりは、すでにお互いにいくつかのなぞなぞを出し合っている途中から始まる。「暇だし、なぞなぞとか出し合わね?」というような物語の導入はこしらえない。物語の基本とも言える《起承転結》の《起》が描かれていないのだ。

彼らの発する言葉には、登場人物の関係性や状況を説明するようなセリフ(いわゆる説明セリフというもの)は存在しない。説明されないままにさらっと始まったコントのなかで、彼らの言葉尻や立ち振る舞いを手掛かりに観客たちはコントの状況を徐々に察してゆく。つまり、観客たちがあらかじめ欠落した《起》を想像していくことで、しらずしらずのうちにかが屋の空気感を自ら掴みにいくように仕掛けられている。

 

このようにあらかじめ始まりが欠落しているコントは、たとえ終わりが欠落していても観客にストレスは生じない。始まりらしい始まりから始まらないので、オチらしいオチがなくても締まるのだ。

前述したハンバーガー屋の例で言えば、入店から始まったストーリーは退店(もしくはお会計)まで済ませないと物語として締まらない。しかし、入店から始まっていなければ、退店まで描写していなくてもそこに不自然さは生じない。

かが屋年金問題ネタにおける「目ぇ見ぃ」は光り輝く至極の一言ではあるが、彼らにとっての年金問題が解決した言葉ではないし、彼女が改心する言葉までは描けていない。だがそれでいい。起承転結の《転》、つまりコントの絶頂であるクライマックスで幕を下ろすことができる。

 

《起》や《結》といった手続きを行わないことによる利点はさらにもうひとつある。

それは、かが屋が本当に描きたい部分にネタの時間を使うことができるという点だ。本当に描きたい部分ーーそれは一瞬の感情の揺らぎであり、常識から半歩ズレた情景の切り取りのことである。

それらを丁寧に描いていくからこそのかが屋である、ということについては誰もが認めるところであろうから、彼らにうってつけのコント形式であることには疑いようがない。

おそらく計算してこのコント形式にしたというよりは、自然とそうなったという感じなのではないかと推測する。そして自然に必然なものを選びとってしまうことを、たぶん世の中ではセンスと呼ぶんだと思う。

 

 

まとめる。

多くのコント師が登場から退場までのワンシーンすべてを見せる形態のコントを採用しているのに対して、かが屋はすべてを語ろうとはせずに感情の揺らぎを摑まえるコントを行う。

前者が短編小説のような「物語」だとすれば、かが屋のコントは「俳句」や「短歌」といった表現に近いと言えるだろう。つまり、かが屋はコントを(物語的に)語るのではなく、コントを(俳句的に)詠んでいる。

どちらが上でどちらが下かという話ではない。かが屋のコントが他のコント師の作品に比べて何か一線を画す印象を受けるのは、つまりこういうところに由来するのではないか、なんて思ったわけでした。

〈了〉

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

 
図解いちばん親切な年金の本 19-20年版

図解いちばん親切な年金の本 19-20年版

 

書店員を辞めました(退職エントリを書くつもりだった)

f:id:shiomiLP:20181129232143j:image

 

書店員を辞めました

退職エントリを書くことに小さな憧れがあったので、退職が決まったときから「どんなこと書こうかなぁ」とぼんやりと考えていたのだけど、でもよく考えてみるとネット上から職場に対して言いたいことなんて何ひとつなかった。

しかし、書店員を辞めた現時点で、本や書店について自分が考えていることを書き残していきたい気もするので、今回は「ぼくがかんがえた本といんたーねっと」について書こうと思う。

記事内容を要約すると、<インターネットがもっとコンテンツと出会う場に、そして創作活動をもっとドライブさせる場になってほしい>という話になります。

言いたいことがありすぎて少し散らかった印象になってしまいましたが、自分にしては珍しく熱っぽく書いた記事なので、時間のあるときに読んでくれると嬉しいです。

ちなみに、記事のタイトルを「潮見、書店員辞めるってよ」にしなかったのは、同世代の羨望と嫉妬を一手に引き受けている憎き才能・朝井リョウへの小さな抵抗です。(朝井リョウめ…世界地図の下書きよかったぞ…)

 

 

本当に書店がない

6月、仕事を辞めて少し時間ができたので、西日本をゆるりと一人旅してきた。
九州地方や山陽地方あたりを電車やフェリーを使って、とにかくだらだらと過ごしていた(秋吉台のダンジョン感がすげえ良かった)。

読書好きのほとんどがそうであるように、電車やフェリーに揺られているあいだの時間は読書にあてることができるので、移動はそれほど苦ではない。

自宅から唯一持ってきたレイ・ブラッドベリの『猫のパジャマ』は行きのフェリーの中で読み終えてしまっていたので、それ以降に読む本は現地で調達しようと考えた。
知らない町で本を買って、次の町でそれを売って、また新しい本を買って、また次の町で売って、また買ってーーそんなことを続けていると、ゆく町ゆく町で「本屋はどこにあるかな?」とGoogle Mapで検索をする癖がつくようになる。そして、次のようなことをしみじみと実感する。


地方には本当に書店がない。


直近で言えば心斎橋アセンスの閉店があったように、書店の数が減っていることは大阪で暮らしていても実感することではある。しかし、地方都市のそれは大阪の比ではなかった。比較的大きな駅であるにもかかわらず、駅前に書店は見当たらない。その前後の駅にもない。自動車かバスを使って行ける国道沿いにようやくブックオフTSUTAYAがある、そんな状況がここでは当たり前だった。

そりゃ数字上では知っていたけど、ちゃんと実感したのは初めてだった。
町に本屋がないならAmazonでも使えばいいじゃないか、と思うかもしれないが、ぼくの問題意識は「本を手にいれる場所」ではなく「情報やコンテンツと出会うきっかけの喪失」にある。

 

 

文學界』がコンビニにあるわけない

書店を辞めた今だから言えるのだけど、書店業界や出版業界の人たちが思っている以上に、社会の中で本の存在感は薄い。
何かを調べたいとか学びたいとか思ったときに「本」や「本屋」という発想にならない人は意外と多いのだ。


今でもたまに思い出すツイートがある。数年前にロックバンドSEKAI NO OWARIのメンバーSaoriが文芸誌『文學界』にエッセイを載せた。「ぜひ読んでみてください!」というSaoriの告知ツイートに、普段は文芸誌を手に取らないであろう若い子たちのリプライが数多くぶら下がっていて、その中のひとつにこんなツイートがあった。


「コンビニ5軒まわったけど見つからなかった!」


文芸誌の発行部数は決して多くない。入荷のない書店だってあるくらいだ。ましてやコンビニになんてあるわけがない。

だけど、そのセカオワファンの女の子の発想に「本を本屋で買う」という発想はなかった。もしくは「住んでる町に本屋がなかった」のかもしれない。いずれにせよ、それはその子が悪いのではなくて、ただ彼女の日常生活の中で本が視界に入る場所はコンビニだけだったということなんだと思う。

アーティストや芸能人が小説やエッセイを書くと、普通の作家では届かないような層にアプローチすることができる。内容の質は置いておいて、とりあえずそれはよいことだと思うし、他ジャンルから人が流入してくることは歓迎すべきことだと思う。

新鮮な層にアプローチできたことで、これまで見えていなかった問題が浮かび上がってくることもある。コンビニ5軒、大変だったと思う。

 


情報が届いてない

金スマアメトーークあさイチ。それまで月に数冊しか売れてなかった本が、地上波テレビで紹介されて一気に火がつき、次の重版まで予約を受けつづける、というのはたぶん"書店員あるある"だ。

お客さんの顔を見ただけで「レンチンやせるおかず作りおきでしょ?」「君たちはどう生きるかですよね?」と、こちらから言いたくなるほど、バズるときはとてもバズる。

そういう経験をするたびに「情報が届きさえすれば、本って売れるんじゃん」と思わずにはいられなかった。つまり、本が売れないのは本の内容の問題ではなくて、単純に情報がしかるべきところに届いていないだけなのでは?ということだ。売れる売れない以前の話だ。

 

考えてみると、日常生活の中で本の情報が入ってくるような場所はあまりない。というか本屋に行くことでしか本の情報はなかなか入ってこない。出版社のWebサイトやSNSもあるが、本の情報が流れてくるTLを作っているのは、そもそも読書が好きな人だけだ。

電車の中吊りなど交通広告もあるけど、目がチカチカするような週刊誌の広告の印象が強いし、新潮文庫は相変わらず昭和臭いデザインの広告ばかり吊るしている。

少し前に、読書好きだという男子大学生と話していて「東野圭吾は好きだけど、東野圭吾の新作情報をどこで得たらいいのかわからない」というようなことを言っていたのを思い出した。

たぶんその感覚が普通で、各出版社の文庫の発売日を把握しているほうが異常なのだ。

 


コンテンツはたぶん悪くない

ここまで書いたところでそれぞれを振り返ってみると、すべて「届いていない」という話をしている。つまり、問題はコンテンツにあるのではなく、流通の問題あるいはプラットホームの問題だよなと思う。

漫画村が大きな社会問題になることだって、漫画というコンテンツそのものに抜群の集客力があるからこそ起こりうる話だ。

 

「情報が届く」ということがどれほど大事なことであるか。

出版社も書店も取次も、本屋の店頭以外で読者にアプローチする明確なプラットホームを持っていないのが現状。例えば音楽サイト・ナタリーの文芸版があれば、もっとSNSの中で書籍や文芸の存在感が増すのになぁといつも思う。

テレビで紹介される機会を待っている状況は、やっぱりおかしいじゃないか。

届かないことや読まれないことは、とにかく恐ろしい。

余談だけど、この前読んだ文化通信(というメディア系の業界新聞)に、新聞社や出版社によるシンポジウムの記事が載っていて、その中で某新聞社の社長さんがネットニュースサイトのことを「ニュース泥棒」と表現していた。まじかって感じだ。泣ける。

 

 

いつも中学生や高校生のことを考えてしまう

noteに書いた記事でもそうだったけど、そもそも何故ぼくがやたらと中高生にこだわっているかというと、ぼく自身が中高生の頃に読書をしてこなかったからだ。

ぼくの実家には本棚がなくて、家族の誰も本を読む人ではなかった。夏休みの読書感想文は、毎年同じ本で書いていた(昨年の原稿用紙を残しておいて毎年少しずつアップデートするのだ。なまけ者のライフハックである)。
自分の思考をもっと言語化したいなぁなんて思って、10代半ばくらいから読書を始めた。 そこで読書という発想になったのは、綿矢りさ芥川賞を受賞したときのインパクトが頭に残っていたことが大きい。ぼくの同世代にはそういう意味での綿矢チルドレンがたくさんいるし、きっと近い将来に又吉チルドレンが数多く現れるんだろうなと思う。

 

文章を書くお仕事をもらうようになってからは、編集者さんとやり取りする機会が増えた。編集者さんと話すたびに「子どもの頃からたくさん本を読んできた人たち」には追いつけないと感じる部分がある。劣等感とはまた違うんだけど、真っ向勝負すると負けてしまう気がする。(まぁそもそもぼくは真っ向勝負するような性格ではなく、逆張りしたり差別化を図ったりするのが好きなタイプなのだけど)

そんな優秀な彼らになくて自分にあるものは一体なんだろうかと考えると、たぶん「読書以前/以後で世界の見え方が大きく変わることを知っている」という点が一番大きいように思う。

言い方をかえると、より広くポップに開かれた考え方ができること。業界やクラスタの中だけではなく、その外側の世界へ届かせることを意識できることだ。

実際、ぼくのブログははてなブログ界隈以外の人たちに届くことを意識しているし、絶歌の記事月が綺麗ですねの記事などはまさにその代表例だ。特に後者の記事は、大学教授からプリクラアイコンの学生たちにまで届いていた。ぼくの理想に近い跳ね方だった。

 

何が言いたいかというと、小説にしろ音楽にしろ映画にしろ創作活動にしろ、カルチャーに手が届いていない中高生の姿はいつかの自分の姿に他ならず、彼ら彼女らにそのきっかけを作っていくこと、それを加速させることが自分の仕事なんじゃないかと思うのだ。

電車の中で、自分の勤めている書店のカバーで本を読んでいる高校生の姿をたまに見かける。それを見て嬉しくなるのは、たぶんそういうことだ。

その姿を見るたびに、きみの手の届くところに本屋があってよかった、なんて本気で思っていた。

 

 

創作とインターネット

ぼくはたまたま大阪に生まれて、ちょっと遠いけど足を伸ばせば大きな書店がいくつもあった。
しかし、書店のない環境で、本に触れるきっあけも習慣のない彼ら彼女らが、一体どこで「カルチャーに触れるきっかけ」を作ることができるだろう。
それは図書館かもしれないし、セブンイレブンかもしれないけど、ぼくはやっぱりインターネットに賭けたい。

本とインターネットの話を持ち出すとどうしても紙か電子かという二項対立になりがちなのだけど、そんな話はもうナンセンスであるし、電子書籍云々だけの話ではない。

小説を読む行為も、小説を書く行為も、小説に出会うきっかけも、そういう創作に関するあらゆる活動のすべてが、iPhoneの上でもっと展開されるように仕掛けていくことが、文芸が真っ当に生き残っていく道ではないかと思う。

この記事は書店員退職エントリなのであえて小説に限って話を展開したけど、本当はあらゆる創作活動がそうあってほしい。

小説を書くことも、絵を描くことも、歌を歌うことも、インターネットでもっとドライブさせることができると思う。YouTubeSoundCloud、Pixiv、instagram、Blogなど、創作物を気軽にお披露目する場所は整備されつつある。

別にレコード会社の目に留まってメジャーデビューなんて夢を持たなくても、自分の作る音楽を待ってくれる人が2、3人いれば趣味としては成功だと思う。

そういう意味ではこのブログも今はとても楽しいし、アクセスがそう多くなくても「潮見さんのブログだー」って読んでくれる人がいる。褒めてくれる人もいる。とても嬉しい。 

インターネットがある時代だからこそ、“消費する趣味”ではなく、何かを“創作する趣味”のほうが大きな意味を持つ。

ぼくの願う“社会の豊かさ”は、きっとそういうものだ。インターネットはきっとその役割を担っていけるし、昔の自分のような人間に対してちゃんとカルチャーの存在や情報が届くようなものを作っていきたい。

 

 * * *

 

いやもう結構序盤で書店員退職と関係なくなっちゃってるよ!というハライチ澤部の声が聞こえてきそうなので、そろそろ終えることにする。

これが退職エントリなのか、暑苦しい演説なのか、あるいは転職活動なのか。もう自分でもよく分からないけど、今はそんな感じです。

以上です。

  

退職エントリってこんなんでしたっけ。

<了>