無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

 

この一週間で僕のブログを読んでくださる方が大幅に増えました。

なので今回は「ゆるふわポップカルチャー」や「インターネット自由研究」ではなく、自分のブログそのものについて書く。

この記事は、次の記事を書くための文章であって、たぶん面白くないと思います。そしてあくまで「先の記事で多くの方に読んでもらえた」ことについてだけに触れ、その記事の内容についてここでは再考しない。

 

 

これほどまで多くの方に自分の文章を読んでもらう機会は今までなかったし、これからもそうあるわけではない。自分の考えや主張が人に届き、しかも肯定的なレスポンスが返ってくることはとても嬉しい。

 

ブログを始めた直後から薄々気づいてはいたけれど、今回はっきりと実感できたことがある。

日頃大したアクセス数もないブログに自分の思ったことを書いただけであっても、広く拡散されてから(例えばはてなブックマークのトップやgoogle検索から)記事を閲覧する人にとっては、僕の記事がまるで広場の真ん中で声を荒げて叫んでいるように見えたりするのだ。

そして、見え方が変わると、中身の読まれ方も変わってくる。「今でも先の記事のコメント欄が荒れている問題」の本質はそこだと理解している。

 

また、あらかじめ大きなメガホン*1を手に持っているアルファブロガーの文章と、20万人に読まれることを想定していない僕の文章は、そもそもの性質が違う。

「どこに向かって放つ文章であるか」というコンセプトと「そして実際拡散された際にその文章はどこに向かって放たれていくのか」という射程とのズレを僕は読むことができない。

思っても見ない形の誹謗中傷が飛んできた。僕を罵るブログが書かれた。2chでスレッドが立った。それがそのまま2chまとめ記事として流通した。

どちらかというとメンタルの弱い僕が、それらに対してそれほど気にかけずに過ごせたのは、肯定的なコメントをくださる方が数多くいたからで、だからこそ「良い経験になった」とうまく消化できたんだと思う。本当にありがとうございます。

 

 

無印都市の子どもBlog

僕の記事を参照してブログを書いてくださった方が、記事の中で《本当は別の人気記事にある紗倉まなツイッターの考察とかやりたいんだろうに・・・。》とコメントしてくださっていて、僕は「あぁそうだった」と思い出した。

 

なので、過去の記事を参照しながら「本当にやりたいこと」を簡単に紹介していく。

ネット上や世間で小馬鹿にされているもの、正しく評価されていないものを自分の言葉で評価し直したい、という記事が多い気がします。

 

小説や本屋についての記事も書いていきたい。

 

この「弓」と同時に、もう一つ投稿する記事があります。

川端康成の『雪国』の書き出しについて書いた記事です。

《国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。》という文章には主語が存在しない。

ここに隠れているかもしれない主語、ここにあったかもしれない主語を空想していくという内容。

実は3年以上前に書いた文章なのだけど、このブログには不似合いかと思いアップしてこなかった。しかしもう不似合いとかそういう状況でもなくなったし、東海大学文学部文芸創作科の学科説明会で最近同じようなことをやったという話も聴いたので、この機会に晒してしまうことにしました。

では。

<了>

*1:Twitterのフォロワーやブログ読者登録者数など