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川端康成『雪国』の冒頭を考察する 【あらかじめ欠落した主語を空想していく】

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

川端康成『雪国』新潮文庫

 

あらかじめ欠落した主語

川端康成著『雪国』の冒頭文は、主語が欠落している。

作者である川端康成が書いた文章に主語がないのだから、「その文章に主語は不要」というのが唯一無二の正解だとは思うが、その文章に当てはまる主語がどこかに存在すると仮定して。

それに相応しい主語になりうる可能性のあると考えられるものは二つ、主人公の名前「島村」、もしくはトンネルを抜けたその「汽車」である。

 

 

視点

この作品は、基本的に「島村」という三人称によって物語は進行する。そして、作品を読む限りそれは「三人称単元描写」、「島村」の目から見えるもので語られている。つまり、島村が目にしていないことや知り得ないことは語られない。

 

しかし、三人称単元描写だけで物語が進行しているわけではない。

『雪国』には次のような文章がある。

しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知るはずはなかった。(p. 7)

そこには「島村」を観察する「語り手」の存在が出現している。

ただ、その「語り手」が三人称特有の「神の視点」で語るのはあくまでも島村の心理のみであり、風景描写は「島村」の視点からでしか描写しない。それならば、冒頭文の主語も「島村」からの視点によるものが当てはまるのではないかと考えた。

 

この記事の冒頭で引用した三文の、第二文「夜の底が白くなった」は「それまでは白くなかった」という風にも読み取ることができる。なぜ白くなかったのかと考えると、それは単純に雪のないトンネルの中を列車が走っていたからである。つまり、トンネルを抜ける前、物語が始まる直前の0ページ(というものがあるとして)では、視点(カメラ)はトンネルの中、列車の中にあったと考えられる。

列車の中にカメラを置いて、そこからトンネルを抜け、白くなった光景を見たのであれば、それは列車に乗る「島村」の視点であると言えるはずである。もちろん厳密にはそうとは言えないかもしれないが、「島村」の視点に限りなく近い効果が得られるはずだ。

つまり、冒頭文を無理やりに映像化するならば、汽車に乗っている「島村」が窓越しに雪を見る、という視点(カメラ)になるはずである。

 

 

英訳された雪国Snow country

主語が無くとも成立する日本語とは違い、英語には主語が必須である。そこで、英語に翻訳された『雪国(Snow country)』の冒頭文を調べてみた。

第一文は以下の通り。

“The train came out of the long tunnel into the snow country”

エドワード・ジョージ・サイデンステッカー【Edward George Seidensticker】訳。以下の英文も同氏)

この場合の主語は「The train」である。

つづく第二文「夜の底が白くなった」

“The earth lay white under the night sky”

 第三文「信号所に汽車が止まった」

“The train pulled up at a signal stop”

と、まぁこんなふうに訳されている。

第二文の主語は「The earth」。

第三文の主語は、第一文と同じく「The train」。

 

ここで、英訳されたものを再度日本語に直訳しなおす。

「列車は長いトンネルを出て雪国に入った」

「地は夜空の下で白く横たわる」

「列車は信号で止まった」

 

このつまらなさ!!!!!という話である。

 

英訳された三文を読むと、すべてが客観的な視点からの描写であり、「島村」の体験ではなく、ただそこにある事実を淡々と書き連ねているだけのような印象を受ける。

「島村」のフィルターを通さない完全なる三人称によって書かれている英訳と、三人称でありながらも「島村」を通して世界を見る一人称的な形式をとる川端康成の原文とでは、語る形式が異なり、読み比べてみても温度差を感じる。

また、三文の英訳されたものは「物」が主語となり、まだ人間は存在していない。もちろん川端康成の原文もこの時点ではまだ「島村」は姿を見せていないが、「夜の底が白くなった」のを見た「誰か」という形で、人間の存在は辛うじて確認できる。

 

 

小説考察

 実際に英訳されたものの主語は「The train」であったが、それではあまりにもたくさんの要素を取りこぼしてしまっていると僕は思う。「The train」を採用することによって、隠れた人間の存在を完全に消し、視点まで原文と異なってしまう結果となってしまっている。

シンプルさを追求する傾向にある英語としては「The train」を主語にするほうが文章として美しいのかもしれないが、日本語小説の翻訳としては、あまり正確でない気がした。

「気がした」で締める考察記事ってどうなんだとは思うけど、もしあなたも「そんな気もするわ」と思ってくれたらうれしい。

 

この考察が妥当であるかどうかは別として、小説についてあれこれ考えて遊ぶのは楽しいのでおすすめ。

今年の夏も全国の書店にて、新潮文庫・角川文庫・集英社文庫の夏フェアが大きく展開されると思う。少なくとも新潮文庫のリストには『雪国』も入っているだろう。気が向いたら手に取ってみよう。

長いのは集中力が続かなくて読めないという人には『掌の小説』という超短編集がおすすめ。そこに収録されている短編「雨傘」の少年少女が萌える。

 

 <了>  

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

 
掌の小説 (新潮文庫)

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