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無印都市の子ども @shiomiLP

平成ポップカルチャー と インターネット自由研究

夏目漱石がI love youを「月が綺麗ですね」と訳した理由

文学

 

月が綺麗ですね、という名リリック

明治時代、文豪・夏目漱石が英語教師をしていた頃の話。教え子の一人が“I love you”を“我君を愛す”と翻訳したのを見た漱石先生が「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ」と言ったという。

最近ではドラマなどでもたまに引用されているような有名な逸話。若い世代にとっては「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」よりも馴染みのある名文句かもしれない。

しかし、実際に漱石がそう言ったという文献・証拠はどこにも残っておらず、どうやらガセネタ(都市伝説)っぽいぞ?というのが有力な説だそうだ。

 実際に漱石がそう言ったかどうかは別として、「月が綺麗ですね」という言い回しには形容し難い情緒があり、日本最高峰の文学者がそう表現したとしてもまぁおかしくはないと思う人が多くいたからこそ、この逸話が世間に広く流通したのだろう。

 

この記事では、「I love you」を「月が綺麗ですね」と表現することの、一体どこに日本らしさがあるのか?について考察していく。そこには、月を介すことで浮かび上がってくる“行間”があり、直接的には記述せずに愛を表現する構造がある。

記事の後半では、漱石と同じの構造を使って「I love you」を表現した音楽を紹介する。その構造が時代・世代を問わず多くの人に受け入れられてきたことを、2曲の流行音楽を例に解説していく。

その2曲は、70年代のフォークグループであるフォーククル・セダーズの『あの素晴らしい愛をもう一度』、そして2000年代のロックバンドであるBUMP OF CHICKENの『天体観測』。時代は違えど、その時の若い世代に刺さった2曲と言えるだろう。

尚、この記事は僕の独断と偏見にまみれているが、割と納得いく答えを導き出せる気がしている。

美しい彼女を綺麗な月に喩えたとか、気恥ずかしくて月に話を逸らしたとか、そういう解釈にあまり納得していない人に届けば幸い。

 

 

 I love you と 月が綺麗ですね の構造

まずは「I love you」から見ていこう。

登場するのは「私I」と「あなたyou」、そして「愛love」という、とても単純な構造。私があなたに向かって愛を伝えるという、とても直接的でシンプル故に強いメッセージになっている。

ここで大事なのは、私があなたに“向かって”愛を伝えているというところだ。

分かりやすくしたいので図にしてみた。

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当然二人は向かい合っている。I love youは相手の目を見て発する言葉だ。

 

ではそれに対して「月は綺麗ですね」はどういう構造をとっているか。

登場するのはこの言葉の発言者である「私」と、それを投げかけられた「あなた」、そして「月」。「愛」はどこにもない。

 図にしよう。(そうしよう!分かりやすいもの!)

f:id:shiomiLP:20160708012003j:plain

「I love you」では二人は向かい合っていたが、「月が綺麗ですね」では共に同じ方向を向いている。二人のその視線の先にあるのが「綺麗な月」である。

当然だけど、「月が綺麗ですね」は相手の目を見て発する言葉ではない、月を見てささやく言葉だ。

 

では「月は綺麗ですね」のどこに愛は潜んでいるか。

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「月が綺麗ですね」と言い、「そうですね」と返ってくる。つまり、二人が美しい対象物を眺めながら“美しさ”を共に感じ、心を通わすことができれば、そこに愛は確認できる。あえて言葉にはせずとも、それだけで充分な意思疎通となる。*1漱石はそこに愛を表現した。*2

向かい合うのではなく、寄り添って同じ方向を眺めるというところに、米国/英国と日本の愛の在り方の違いが浮き彫りになっているように思う。

「I love you」のようなはっきりと分かる明確なメッセージではない。電波のような、目や耳で確認できない信号を送り合う感覚なのかもしれない。

月を介すことで愛を言葉の中に潜ませ、直接的に記述せずに「I love you」を表現する。この構造には昔の日本人にはあった*3“奥ゆかしさ”があり、情緒を感じる、というわけだ。

行間を読む、つまり文章の表面に表されていない真意を汲み取るという行為は、“言った言ってない訂正する謝罪する議事録契約書ボイスレコーダーほうれん草”な僕たちの社会では通用しない表現であり、創作の中に見出したひょっとしたらロマンに近いのかもしれない。

 

 

あの素晴らしい愛をもう一度 の美しい花

向かい合って愛を伝えるのではなく、美しい対象物を共に眺めて心を通わすことで愛を表現する構造。

夏目漱石と同じ構造で愛を表現した流行歌がある。1971年発表ザ・フォーク・クルセダーズ*4の名曲『あの素晴らしい愛をもう一度』。

作詞は北山修

あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度

『あの素晴しい愛をもう一度』 - ザ・フォーク・クルセダーズ

 「花」を見て美しいと言い、私とあなたの心が通った、その瞬間こそが「愛」であり、それをもう一度――という歌詞。

二人が美しい花を眺めながら“美しさ”を共に感じ、心を通わすことができれば、そこに愛は確認できる。あえて言葉にはせずとも、それだけで充分な意思疎通となる。

対象物が「月」であるか「花」であるかの違いしかない。

 

当時の北山修がそのことに自覚的であったかどうかは分からないが、のちに精神科医となった北山は著書の中で、浮世絵に描かれた日本の母子像に、母と子がともにひとつの対象を眺めるという図が非常に多いことを指摘し、「共視論」を唱えている。

愛の所在は解っていた、と考えていいだろうと思う。ちなみに、これを書いた当時の北山は23歳。

 

 

天体観測 の見えない星

北山修は花を介して愛を表現したが、歌詞の中に「愛」という言葉も直接登場させた。「月が綺麗ですね」のように、「愛」を直接的に書かずに表現したのが、2001年発表BUMP OF CHICKENの『天体観測』だ。

作詞は藤原基央。当時21歳。

歌詞が物語になっているので、少し長めに引用する。

午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい

二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか天体観測 ほうき星を探して
(中略)

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた

天体観測』 - BUMP OF CHICKEN

 真夜中、二人が望遠鏡を持って落ち合い、望遠鏡で「星」を眺める。

「綺麗ですね」と言うわけでもなく、二人が「美しい」とささやくでもない。それを言葉にさえすれば、心は通って「愛」を確認し合えただろう。けれども二人はそれをしないまま、このあとの歌詞で二人は離れ離れになってしまう。しかし、あの時、確かにそこには愛があったのだとあとで思い返すが、確証はない――という歌詞。

これもまた対象物が「月」か「花」か「星」かの違いでしかない。

 

* * *

 

同じ構造で愛を歌った70年代と2000年代の音楽が、それぞれ異なる時代で若い世代の心に刺さり、そして文豪・夏目漱石が愛を表現したと流布する言葉に同じ構造が見られる。

何か美しいものを介して愛を表現する方法は今も人々の心を引きつけ、心を通わすその刹那にこそ愛はあると信じている。

「月が綺麗ですね」には、そんな愛が隠れている。

<了>

文豪ナビ 夏目漱石 (新潮文庫)

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共視論 (講談社選書メチエ)

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jupiter

jupiter

 

*1:関西人にも解りやすく説明すると、ボケた人に対して誰かのツッコミが入ればそこに漫才が成立するのと同じ。

*2:いや漱石が表現したわけではなさそうなんだけどね。

*3:昔の日本人にはあったと今の日本人が思っている

*4:確か加藤和彦北山修の連名でリリースされた曲だと思うが、ここではフォークルの曲として紹介させてください。

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