無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

新海誠と細田守 - それぞれの“道”の暗喩を考察する。

 

新海誠の暗喩 - 踏切と階段

君の名は。』のラストシーンは、東京の街ですれ違い続けた瀧と三葉がついに出逢う、というところで幕が下りる。

明らかに新海誠の過去作『秒速5センチメートル』を意識して作られていて、出会うことのできなかった「貴樹と明里」との対比を観客に強く意識させた上で、「瀧と三葉」を出逢わせている。

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↑この東京の街の画は『秒速5センチメートル』のものだけど、『君の名は。』の終盤にも似たカットがあり、どちらも同じように桜の花びらが舞う。

 

秒速5センチメートル』の最後のシーン、踏切ですれ違った「貴樹と明里」は、再会することなくそれぞれの進路へと進んでいく。この場合の踏切は“断絶”の暗喩だ。

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一方、『君の名は。』で2人がすれ違う場所は階段。そこには踏切における電車のような、2人を引き離すものや隔たるものはない。あるのは高低差、つまりそれは2人が異なる時間の世界を生きてきたパラレル性(三年の時間差)を表現したものになっている。

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「貴樹と明里」然り「瀧と三葉」然り、双方が想い合っている相思相愛の状態だ。「AかBかどちらか迷う」というものではなくお互いに「それしかない」のだ。

一つしかない選択肢 / 一本しかない道で、それを成就させるかすれ違うか、という物語を描いてきた作家が新海誠だと言える。

新海誠が描く道は、どこまで行っても一本しかない“運命”の道。

 

 

細田守の暗喩 - 二本の道

一方、細田守は二つの進路を象徴的に描く。

時をかける少女』でタイムリープを続けるマコトは、「ここから」という標識のあるY字路から何度もタイムリープを行うことで「千昭に告白される未来」と「告白されない未来」を選択することができる。

二つに枝分かれした道は、その二つの未来の可能性の暗喩である。最終的にマコトは自らが希望する「告白されない未来」を選び取る。

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おおかみこどもの雨と雪』は、人間とおおかみのあいだに産まれた子どもたち(雨くんと雪ちゃん)が「人間としての人生」か「おおかみとしての人生」かを選択する物語であり、いくつかの場面でそのことが映像で表現されている。

左が小児科(人間の道)、右が動物病院(おおかみの道)

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左が小学校(人間の道)、右が山(おおかみの道)

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細田守における道は、“進路選択”として表現されており、結果的に雨くんがおおかみの道へ進み、雪ちゃんが人間の道を進む。しかしそこに必然性はなく、自らが選択した進路であることを強調する。雨くんが人間の道を進むこともあったかもしれないし、雪ちゃんがおおかみになる未来もあったかもしれない。

細田守が描く道は、あったかもしれない可能性の“選択”の道。

 

 

* * *

 

異界への入口

誰も憶えてはいないかもしれないけど、3.11直後に宮崎駿が<今はファンタジーを作る時期ではない>と発言し、3.11後の創作表現は写実主義的な方向へと舵を切るだろうと宣言した。

しかし現実は真逆の方向へと進み、むしろ「ファンタジー全盛期」へ向かっていると僕は感じている。新海誠の作品も、きっとこれからもっとファンタジー色を強めるだろうし、<異界>を描くことにも野心がありそうだ。

 

新海誠作品の中でもっともファンタジー色の強い『星を追う子ども』や最新作『君の名は。』では、異界への入口(死後の世界、あの世)を田舎の町の外れに設置した

一方、細田守の『バケモノの子』では渋谷の街中に異界への歪みを生じさせる

 

運命と可能性の道、異界への入口、落下する脅威(彗星と人工衛星)など――

どこか似たモチーフを、どこか異なったかたちで表現する新海誠細田守。そんなところに2人の作家の同時代性が見えてくるような気がするけれども、でも本当にそれが顕著に表れてくるのは、まだまだこれから先の話だろう。

<了>