無印都市の子ども

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みんな何かしら“入らない” - 『夫のちんぽが入らない』

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今更ながら、2017年のベストセラー『夫のちんぽが入らない』を読んだ。

去年自分がいろいろと考えていたことと、ほぼ同質の悩みであり、自分とかなり近い問題意識を持った作家であったと知って、「もっと早く読めばよかったな」と思ったのだが、まぁ別に今からでも遅くはないだろう。センセーショナルなタイトルはあれとして、こういう作家のエッセイが何十万部も売れることは大変喜ばしいことだと思う。

著者のこだまさんの新刊『ここは、おしまいの地』が先日発売になったので、それもいずれ読もうと思うのだが、とりあえず今は『夫のちんぽが入らない』についての気持ちを整理したい。

内容の解説などはもういいだろう。2018年になって今更書くレビューには、今更なりの書き方がある。どういうところがよい、どういうところが泣けた、とかいう話は、ほんとのところはどうでもいいのかもしれない。

このエッセイに、ひとつの大きなメッセージがあるとすれば、それは「人の想像力が、生き方の多様性を担保する」ということだろうか。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

毎朝やってくる腹痛。異性と話すときに出てしまう気持ちの悪い動作。自分にだけ反応せずに進入を拒む自動ドア。他の客と比べて自分にだけ反応が冷めたい(ような気がする)アパレル店員。自分が喋りだすと沈殿する教室の空気と冷えた眼差し。入会しませんか?とそっちから声を掛けてきたくせに書類を提出したら審査に落ちたパルコカード。生活の中で、あらゆるものごとが「お前は欠陥品だ」「社会不適合者め」と語りかけてくる。

「みんな」は「普通」だから、自分だけがうまく生きていくことができないだと、そう思っていた。だけどある時、どうやらそう思っているのは自分だけではないようだと気づかされる。太宰治の『人間失格』に代表されるような、心の秘め事を粉々に砕いてくれる快感が私小説やエッセイにはあって、『夫のちんぽは入らない』もまた、そういう類の告白である。

 

このエッセイは、2種類の「想像力の欠如」が、不幸を産むのだと教えてくれる。

ひとつは、「孤独な人は不幸!」「子どもを産まない人はかわいそう!」というような、他者のライフへの想像力のなさである。孤独であっても(孤独であるからこそ)幸せな人はたくさんいるし、子どもがいなくても幸せな夫婦もたくさんいる。そして何より、幸せの定義が人それぞれであると想像できないことが、言葉となって無意識に他人の心を蝕んでゆく。

もうひとつは、「普通はみんなできるのに…」というような、実体のない「普通」「みんな」という虚像に怯えてしまうタイプの想像力の欠如だ。街ゆく人を見れば、みんな普通に幸せそうに見えるけど、ほんとはみんなそれぞれに何かが欠落していて、且つ何かが過剰であったりする。それらの特徴は、外見からは見えないことのほうが多い。スーパーマーケットで愉しくお買い物している夫婦が、まさか何年も何年も夫のちんぽが入らないことに悩んでいるなんて思わないではないか。今朝の満員電車で向かい合った彼がとんでもない借金を背負っているなんて想像したこともない。アレンデール王国の王女が自制の効かない魔法のちからで誰かを傷つけてしまうことに怯えているかもしれないなんて誰が予想できるだろうか。

「そうだよな、みんな各々なにかを抱えてるし、なにかを背負ってるし、なにかを抱えながら背負ってるよな」と改めて実感したい人は、『家、着いていっていいですか?』や『ドキュメント72時間』を観てほしいのだが、それについては去年書いた別記事を参照。

 

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私立学校出身の人は自分の子を私立に入れたがるし、公立出身の人は公立でよいと判断する、と最近同世代と話していて思った。みんな、自分の歩んできた人生にそれなりの正解を確信していて、たぶん仮に別の進路を進んでいたとしても同じだけの確信を得ていたのだろうと思う。親が自分と同じ職業を薦めたりするのも、そういうことなんだろう。

自分の選んだ道を肯定するのは結構だが、だからって選ばなかった道を否定しなければいけないという決まりはない。

子どもを産んで幸せ(正解)だからって、子どもを産まなければ不幸せ(不正解)とは限らない。自分の人生の肯定に、他人の人生の否定は必要ない。

どちらの道を選んでも、それなりに幸せで、それなりに大変で、それなりに正解。

社会にあふれる問題の多くは、どちらかの選択肢が天国で、どちらかが地獄、というものではないのだと思う。

<了> 

(※トップ画引用 : https://tofufu.me/kodama_interview/