無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

夏の歩調

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次の営業先に向かう途中、西中島南方ファミリーマートに寄ると、店の奥のでかい冷蔵庫がほぼほぼからっぽだった。冷蔵庫の扉には手書きの貼り紙が貼ってあり、昨夜の淀川花火大会の影響であらゆる種類の飲料水が品切れていると書いてあった。今晩には再入荷すると書いてあったので、たぶんそれまでのあいだだけの光景だろう。こういうシーンに遭遇するのはひさしぶりだと感じた。昨夜は3年ぶりの淀川花火大会で、ぼくは花火を見なかったが、大勢の客が押し寄せたことは知っていた。

でかい冷蔵庫のとなりの冷凍庫にフラッペが残っていたのでそれを購入してレジ横のコーヒーマシンでミルクを注がれるのを待っているあいだ、こういうシーンに遭遇することが減ったのはコロナ禍だからかと思い返した。ライブTシャツを着た人たちがぞろぞろと歩き連ねていたり、USJ帰りのミニオンズが西九条駅に溢れかえっていたり、そういうものに遭遇するのがけっこう好きだった。自分と無関係だったはずの熱が誤配してくる街はいい街だと思う。こういうものはいまはオンラインというかTwitterトレンドでしか遭遇しなくなったけど、でもそれも遅かれ早かれゾーニングされていく傾向にあるみたいなのですこしさみしい。西中島南方ファミリーマート、そのからっぽの冷蔵庫には、そんな自分とは無関係だったはずの熱がまだ残っている感じがして、それがなんだか嬉しかった。フラッペは少々高いうえにそこまでおいしいわけではないんだけど、なぜか買ってしまう。

 

 

夏の季語に触れることなく夏を過ごすことなんて、根暗な我々にはかんたんなことでありますが、しかしそれではただ暑苦しいだけであまりにさびしい。なので今年の夏のぼくは隙あればラムネを飲んで過ごしている。クソ暑いなか墓参りを済ませたあと、寺院の参道に並ぶかき氷の出店でラムネが売られていたので、さっそくその列に並ぶことにした。先客の女性が店主と何かを話していて、店主が一生懸命にラムネ瓶の蓋をドライバーで叩いている。何をしてるんだ、と思っていたら、女性がくるりとこちらを振り返り「ラムネ、注文しますか……?」と聞いてくる。ぼくが「ラムネ、注文します……」と答えると女性は店主に向かって「えっ、なんかラムネ買うお客さん来ました」と笑う。どうやら女性は店頭に見本として置いている常温のラムネがほしかったらしく、しかし見本には蓋を開ける際に必要なキャップがすでに取り外された状態であったため、店主はドライバーを用いてキャップなしで開封を試みているようだった。そこへラムネを求むぼくが参上したことで、ぼくのキャップでふたつのラムネが開けられるという算法だった。ぱしゅっと冷えたラムネと常温のラムネのふたつを開けて、それぞれに手渡す店主はなぜかちょっと嬉しそうで、それはあれだ、たぶんテトリスのブロックがうまくはまったような嬉しさだ、と想像した。やってほしいときにやってきた長い棒状のブロック、ただ順番が巡ってきただけだけど、喜んでもらえるとブロックも嬉しい。キャップありがとうございます、という謎な感謝を受けたあと、冷えたラムネを片手に参道を下りながら、あの人の常温ラムネと乾杯したかったなと思ったが、あと100回同じシーンに遭遇してもできないだろうし、ブロックは綺麗に弾けて消え去るから喜ばれるんですよ。

 

 

ラムネという言葉は、英語の"レモネード"が日本で転訛して生まれたらしい。勝手に英語だと思っていたのでそれっぽい綴りがあるのかと思っていたけど、ローマ字でramuneでいいみたいです。ご存知でしたか。ぼくは知りませんでした。

ところでラムネとサイダーのちがいを知っていますか。そのちがいは実は製造過程においてーーというような話ではありません。玉詰め瓶に入っているのがラムネ、それ以外をサイダーと呼んでいるそうです。まさか容器で区別しているとは……。でも、よくよく考えると、自分も普段から容器のちがいで呼び名を変えているような気もしてくる。玉詰め瓶に入っているラムネをコップに注げばサイダーで、サイダーを玉詰め瓶に戻せばラムネ。中身はまったく同じなのに、どこにいるかで名前が変わる。へんなのーと思うけど、ぼくの住む地域で回転焼きと呼ばれる食べ物は関東では今川焼きと呼ばれているし、魚のカサゴは徳島ではガガネと呼ばれているらしいので、意外とあるのかもしれない。どこにいるかで呼び名は変わるけど、中身は何も変わってない。ぼく自身もそうだった。会社にいるぼくと友人といるぼくとでは呼び名はちがう。呼び名がちがうってことは役割が異なるってことなのかもしれない。ガラス瓶のなかで透明な炭酸が揺らめいて動く光は、ラムネだけが生み出す輝きだったと思う。というか、そう思いたいじゃないですか。せっかくラムネ飲んでるんだし。

 

 

夏の歩調

夏はずっと苦手だった。いまも苦手である。気温があがると体調が崩れてしまう。疲労感が抜けず、頭は回らず、夜は眠れない。自分の体調とうまく付き合っていくことが、たぶん年齢的にもこれからもっと大事になってくるであろうから、自分なりの夏の過ごし方を見つけていきたいと思う。生湯葉シホさんのコラムで『「元気」はもうあきらめた』というのがあって、そんな折り合いのつけかたを自分もしていきたいなと、それを読んで以来なんとなく意識している。『夏の歩調』という名前にはそんな意味を込めたつもりだけど、まあそれは後付けである。でもきっと、普段、無意識にそういうことを抱えて過ごしているから浮かんできた名前なのだと思う。

『夏の歩調』は日記と呼べるほど日々のことをついて記述するわけではないし、エッセイと呼ぶのはすこし気恥ずかしいので、これをなんて呼べばいいのかわからないのだけど、別に分類する必要もないのかなと考えている。この記事を明確な意味や価値のあるものにしようとはいまのところ考えていない。だから分類する必要性もない。ただ自分が愛着を持てるように『夏の歩調』と名づけただけで、それは「無印都市の子ども」にも同じことが言える。

ここ数年はろくにブログを更新していなかったけど、そのあいだにも読者登録してくれたり、記事をツイートしてくれたりしてくださる方々がいて、それはとても励みになっています。文章を書きながら、あるいは書いたあとにも、決してうまくはない自分の文章に幻滅しながら、こんなことを書くと馬鹿がバレるのでは……なんて思って下書きに眠らせてばかりでした。しかし自分の思いつきが無知ゆえの車輪の再発明であったとしても、まあそれはそれでいいじゃないですかといまは開き直りかけている。歪んだ車輪の再発明を愛してやりたい。この世界にすでに車輪が存在していようとも、発明した瞬間の喜びに変わりはないと思う。というか、そう思いたいじゃないですか。せっかくブログ続けてきたんだし。(このしめかた、気に入っている)

 

<おしまい>

 

空気階段のコントについて - 常人の狂気性/狂人の常識性

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キングオブコント2021』は空気階段の優勝で幕を閉じた。

ぼくはこれまで何組かのお笑い芸人をすきになってきたが、空気階段に対する愛情はそれらの比ではなかったので、推しが賞レースで勝負するのはこんなにおそろしいことなのか……とここ一ヶ月ほどずっとそわそわしていた。

結果としては、最高の成績と最高のコントを2本見せてもらって、とにかく胸がいっぱいである。とてもうれしくなってしまったので、今年の春ごろに書いたもののお蔵入りにしていた記事を公開してしまおうという気持ちになった。

かんたんに要約すると、空気階段の演じるコントは「常人の狂気性/狂人の常識性」を描いているという話を書いている。記事のなかで”狂人”や”常人”という書き方をしていて、あまりいい語彙でないことはわかっているのだけど、人間はそんなふうにカテコライズできるようなものじゃないよってことを言っているので、そこらへんは許してほしい。

読み返している途中で、今日みたザ・マミィのコントの1本目に通ずるものがあるなと気づいた。それはつまりきっと、すべては岡野陽一に続いているということなのだろう。

とにかく空気階段おめでとう。特にこの一年は彼らのコントやラジオに支えられていた。

 

 

空気階段のコントの特徴として、鈴木もぐらと水川かたまりのどちらかが狂気的な人間を演じることが挙げられる。代表的なコントを例にして言えば、『クローゼット』では鈴木もぐら(クローゼットのなかで浮気男に呪いをかける)、『ゆうえんち』では水川かたまり(知能犯のように振る舞う連続全裸事件の犯人)がそれに当たる。

しかし、空気階段のネタは、ただ単に狂気的で怪奇に満ちているというだけではない。そこには常に、社会の潜む"はずれものたち"への愛情に似た優しいまなざしを感じとることができる。昨年のキングオブコントで披露して話題となった「定時制高校」のネタはそれを象徴するものであったし、配信チケットの売上が1万枚を突破した単独ライブ『anna』はまさにそんなまなざしが束になって我々の胸を打ってくる傑作だった。

ではいったい、空気階段のコントのなにがそう感じさせるのか。

 

 

空気階段のコントに狂気的な人間が現れるとき(まあほとんどのネタに現れるわけだけど)、それが鈴木もぐらであれ水川かたまりであれ、その人間が"狂気的であること"自体がネタのキモとなることはほとんどない。いつだって空気階段のコントは、狂人のなかにある人間賛歌こそが本質をなしている。

一見すると空気階段のコントは、どちらかが常人で、もう一方が狂人を演じている、という構図に見える。しかし本来、常人か狂人かで切り分けられるほど人間は単純な生きものではない。常識性と狂気性、その両面をだれもが持ち合わせている。

 

「電車のおじさん」のネタのように、社会のなかで誰もが一度は遭遇したことのあるタイプの、一見ちょっと危なそうな雰囲気のおじさんを鈴木もぐらが演じることが多い。常人か狂人かで言えば、後者だと認識するひとが多いだろう。おじさんは電車のなかで周りのひとたちに迷惑をかけているように見えるが、実際は他人のことを考えて行動する人間であることがわかり、水川かたまりは「やさおじ(やさしいおじさん)でしたぁ!」と叫ぶ。

もし鈴木もぐらが単純に”やばおじ”を演じるだけなら、いまの世の感覚でいえばそれはお笑いとは言えないかもしれない(キモいとされる人物が、キモいとされる言動を見せるだけの笑いには、もう限界があるように思う)。しかし空気階段のネタは、人間のもつ多面性を面白がり、そして人のかわいさを愛でる。常識的にみえる人のなかにも狂気性があり、狂気的にみえる人のなかにも常識性は秘められている。常人の狂気性、狂人の常識性。それを描くことがコントで人間を描くことにつながっていく。

空気階段のコントに、社会の潜む"はずれものたち"への愛情に似た優しいまなざしを感じるのは、彼らがちゃんと人のかわいさを知っているからだろう。

ふたりが人生のなかで経験してきたものを持ち寄り、そしてそれはラジオ『空気階段の踊り場』でさらに増幅されていく。空気階段のコントは、その結晶といえるだろう。

 

(おしまい)