まわれ まわれ まわれよ 水車 まわれ
まわって おひさん 連れてこい
鳥 虫 獣 草 木 花
春夏秋冬 呼んでこい
高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』を観てきました。
僕は今年の夏に『風立ちぬ』を同じ映画館(難波OIOI)で観たのですが、その時と比べて子どもが少なかったです。
むしろ、『かぐや姫の物語』こそ子どもに観てほしい映画だと思ったので、この現状は少し残念です(´・ω・`)
『風立ちぬ』よりもずっと面白い。
同じジブリであっても、宮崎駿に比べて少しクセのある映画を作る印象のある高畑勲監督ですが、『かぐや姫の物語』は普通にエンターテイメントとして面白かったです。
古典特有の湿っぽさや難解さはなく、むしろ軽くてポップ。
登場人物の喋り言葉は現代語過ぎるくらいでした。
もしも「ジブリっつっても宮崎駿じゃないし、竹取物語ってなんか興味持てないわ」なんて思っているのなら、それはとても勿体ない。
純粋に娯楽作品として比べた時に、『風立ちぬ』よりも『かぐや姫の物語』のほうがずっと面白いと僕は思います。
昔口ずさんだ歌に紐づいて、記憶/想いは残る。
かぐや姫は、月での記憶を消された状態で地球へやってきます。何も覚えていないけれど、なぜだか歌だけは覚えている。
逆に、過去に地球で暮らして再び月に帰ってきた女性が、地球での記憶を消されているにも関わらず、その歌を口ずさみ、涙を流す。
それはもしかしたら悲しいことなのかもしれない、と思うのです。
かつて月から地球を眺めて泣いていた女性のように、物語が終わったあと、地球での記憶を失ったかぐや姫も「天女の歌」を口ずさみながら泣くのでしょうか。
記憶と一緒に想いも綺麗さっぱり忘れることも、一種の「救い」だと僕は思います。
『輪るピングドラム』の最終回を観たときも思ったけれど、別の世界へ行っても記憶を持ち越すのは、悲しいだけだ。
竹の子/月の子 -子どもが成長する瞬間や体験-
竹から生まれた竹の子(かぐや姫)は、一瞬一瞬で体が成長する。
彼女が成長する瞬間というのは、すべて「何かを体験した瞬間」であるわけです。
まず「笑うこと」で成長する。
その次は「危険を冒すこと」。映画『スタンド・バイ・ミー』のような通過儀礼(カエルを捕まえようとして縁側から落ちる。ウリボーの仔の群れに近づいて親ウリボーに突進されかかる)を経験して身体が大きくなる。
こういうところに、監督の哲学というか、考え方が現れているよなぁと思いました。
高畑勲監督のセンス
一番驚いたのは、高畑勲監督の「お笑いのセンス」かもしれない。
「ひーめ!!!おいで!!!ひーめ!!!おいで!!!ひーめ!!!おいで!!!」と必死に叫ぶ翁や、花見に来たにも関わらず「帰りましょう」と言い出す姫に「えっ」とリアクションする女童など、何度か笑い声が起こるところがあって、それはこれまでのジブリ映画にはなかったタイプの笑いでした。
また、かぐや姫が絵巻物を渡り廊下にシャーっと走らせて広げたり、相模とのお琴の練習は適当な癖に翁の前では突然超絶テクニックを魅せたり、とてもポップなネタが多かった気がします。
あ、でもセンスの話で言うと、たまに「あ、コレなんか感覚古い、日本昔話的なエッセンスだな」と思う瞬間がいくつかありました。
例えばラストシーン、かぐや姫が帰っていった月に、赤ん坊の頃のかぐや姫の姿が映し出されたところ。
あと、捨丸兄ちゃんの顔は「古い男前」ですよね(その点、あの歳でハウルを描ける宮崎駿って半端ない)。
水彩画のような画
「これを長時間観られるのかなぁ」という不安があったのですが、全然余裕で137分間、観続けられました。
常に線がゆらぎ、人の表情が固まらない。
飽きるどころか、むしろずっと観ていたい。ずっと観察していたい。
再会した姫と捨丸が山を飛行するシーンで、一瞬だけCGのように見える映像があって、鳥肌が立ったのですが、あれは僕の見間違いですかね…?
古典としての『かぐや姫の物語』
僕らは古典としての『竹取物語』を知ったうえで『かぐや姫の物語』を鑑賞するわけですが、『竹取物語』をまだあまり知らない子どもが観ても楽しいし、「『竹取物語』は高畑勲監督の映画で知りました」という体験は割と良いんじゃないかってくらい原作に忠実で良質*1な映画だったと思います。
『竹取物語』という古典作品をリメイク/アニメ化したわけですが、高畑勲監督作『かぐや姫の物語』自身もいつか古典アニメとなる。僕はそう思ってます。
観ようか悩んでる人に一言だけ告げるとすれば、この映画はキワ物では全然なくて、古典となりうる作品だ。ということです。
ホント普通に面白いので、お子さんいるなら連れてってあげてください
<了>
ネタバレ無しverも書きました。 →『かぐや姫の物語』観てきたよレポート【ネタバレ無しver】
*1:「良質って言葉はあまり好きではないけど他に言葉が思いつかないや」