M-1グランプリの傾向と対策
5年ぶりに復活したテレビ朝日系の漫才日本一決定戦「M―1グランプリ2015」が6日、東京・六本木のテレビ朝日で行われ、敗者復活から勝ち上がったトレンディエンジェルが優勝。3472組の頂点に立ち、優勝賞金1000万円を獲得した。
(5年ぶり復活M―1 トレンディエンジェルが優勝 敗者復活から頂点 - Yahoo!ニュース)
最終決戦にはトレンディエンジェル、ジャルジャル、銀シャリが残った。
残った3組は“テンポが良く勢いで点数を稼いでいく”という意味で似たタイプが残り、それは2010年以前の過去のM-1の傾向や価値観を踏襲する形となったように思える。
しかし、それは果たして良いことなのか?
誰が落ち、誰が残ったかで不平不満が出るのは当然のことだ。満場一致なんてまず有り得ない。自分が面白いと思ったコンビが残らないこともある。当然だ。
けれど、今回の3組はそんな個人的なお笑いの価値観に合わなかっただけでなく、最後のM-1から5年経っても漫才がアップデートされていないという印象を僕は受けた。
5~10年前の価値観を踏襲する形となった要因の一つに、その5~10年前のM-1王者たちが審査を務めたこともあるように思える。
かつて自分たちが評価された価値観で今回の出場者を見たのだろう。というかそうなって当然だと思う。一世代上というのはなかなか厄介で、次の世代(が見せる価値観の崩壊)を直視しづらい関係性にあるだろう。
まだネットの評判/評価を見てないので分からないけれど、トレンディエンジェル、ジャルジャル、銀シャリの3組に新しさを感じなかった。個人的には。
新しい流れ
新しい価値観を示す漫才師がいなかったのかというとそうではない。
最終決戦の3組を観た直後にトップバッターの「メイプル超合金」と「馬鹿よ貴方は」を観たが、圧倒的に後者の2組がおもしろかった。
トップバッターの「メイプル超合金」とそれに続く「馬鹿よ貴方は」が新しいM-1の流れを作ったのにも関わらず、そのあとの漫才が評価されて前時代に引き戻された、そんな印象が残る。
番組の中で出演者がM-1そのものについて喋り、まるでM-1がM-1を自己言及するようなシーンが二度あった。
一度目は「馬鹿よ貴方は」の点数が発表された直後の審査員サンドウィッチマン富澤のコメント。《M-1ってこんなんでしたっけ》。
番組トークの流れ的には“やばい奴”が2組続いたことに関しての発言だが、僕には新しい価値観の登場に関しての感想だったように思える。
二度目は4位に落ちたことが決定した直後の「馬鹿よ貴方は」ファラオの言葉。
《やっとM-1らしくなってきましたね》
くっそ笑ったけど、なんかすっごい深い言葉のように思えた。
その日一番おもしろかった奴が優勝
2010年にM-1が終わったあとに、実感したことが一つある。
他の賞レースは漫才の“おもしろさ”よりも“漫才の技術”を優先的に評価されることがあるという事実。おもしろさが多少劣っていても、漫才として難しいことを成し遂げている、挑戦していることが評価されるのだ。
だからこそ島田紳助がM-1の評価基準として「その日一番おもしろかった奴が優勝」を強調していた理由が、M-1が終わってからようやく理解できた。
評価されるべき漫才なんてない。新しい漫才が良いというわけでもない。おもしろかった奴が優勝。M-1はそのことを強調してきた。今大会はその哲学を体現していただろうか。
M-1らしさってなんだ?
<了>