無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

死ぬほど価値のあるものはもっと別にある -大阪モード学園のCMについて-

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8月31日。少年少女が学校に行きたくなさ過ぎて死んでしまうのは、裏を返せば学校にそれだけの価値があると思い込んでしまっているからで、よくよく考えればさすがに死ぬほどの価値はない。

とはいえ各々抱えている状況は異なるだろうし、一概には言えないのだけど。

地方の公立中学や高校なんてのはたいてい理解不能な貶しやばかばかしい論理で社会が回っている。そんな歪みのひとつとしてイジメというものがあり、自分がイジメの対象であるかどうかは別として、そういう空気に疲れてしまうのはよくわかるし、よくわからない奴らしか自分のまわりにいないことに疲れてしまうのもよくわかる。

そういうものに打ち勝っていくことを強さ、うまくやり過ごしていくことを賢さ、くだらない争いから降りることを勇気と呼びたい。だけど、死ぬのはさすがに負けじゃないですか、と思う。その敗戦処理を自分の親に託すと思うと、ちょっとしんどくないですか。

 

 

「人は10代半ばから後半にかけて聴いていた音楽を一生聴くようになる」という話をなにかで読んだことがある。

ぼくはこの年齢(27歳)になっても新しく出会った音楽にガンガン感動するし、確かに10代半ばに出会ったBUMP OF CHICKENはこれからも自分にとっての神様であり続けるだろうけど、新しいジャンルにも手を広げられるだけの柔軟さは持っているつもりだ。

10代で感性が止まっているわけではないが、あの頃の感覚が今も自分の中に残っているのは確かで。例えばですけど、今年は甲子園をよく観ていて、その時によく流れていた大阪モード学園のCMにぼくは心打たれてしまい、あやうく願書を取り寄せてしまうところだった。 


 

 

8月31日。どうか死なずにと、そんな文章をはてなブログで書いたところで、届いてほしい人には届かない。そんなことはわかっている。(ぼくのTwitterフォロワーに高校生はいるのだろうか…?)

SNSには先輩ぶって語りたいだけの大人たちと、その言葉を称賛する大人たちばかりがいて、当の本人たちはそこにいない。我々は彼らに言葉を届ける術を持たない。届いたとしても、鬱陶しがられるだけだ。

 

届くべきところに届けられるだけのポップさを持っているのは、普段大人が舐めてかかりがちなティーンカルチャーだったりする。

死にそうな彼ら彼女らにメッセージを届けられるのは、SEKAI NO OWARIであったりヤバイTシャツ屋さんであったり、ヒカキンであったり竹内涼真であったりする。そういうものの影響力を舐めてはいけないと強く思うし、だからこそソフトバンクのCMには怒りを覚えた。

 

死ぬほど価値のあるものが学校であるはずもなく、かといって死んでも離したくないようなものも持ってないのなら、とりあえず登校するふりしてマクドとか行けばいいし、保健室は結構おすすめだし、図書館は涼しくて居心地いい。

教室が世界のすべてではないし、一度逃げたところで逃げ続ける人生にはならない。

 

イヤならやめちゃいましょう!
苦しいなら逃げちゃいましょう!
でも 好きなことだけは死んでも離すな★

 

このCMのメッセージが人気イラストレーターのポップでカラフルな絵で動き、カリスマバンドのキャッチーな音楽に乗せて8月の地上波テレビに流れることの素晴らしさよ。

<了>