無印都市の子ども

ポップカルチャーの極北

BUMP OF CHICKENにまつわる騒動について考える

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一連の騒動に自分は無関係なはずなのに、無傷とは言えないような気持ちでいる。自分の姿を映し出していた鏡がこなごなに砕かれたようで、正直言ってしんどい。

とはいえ我々はもういい大人なので、こういうことがあっても普段通りの生活を送っている。ちゃんと会社に出勤しているし、家でお笑い番組を観て笑ったりなんかしている。空気階段おもしろかったな。

でもそうやって過ごしながらも、特に聴きたい新譜やラジオもなくて、話したい人もいないときに、地下鉄のホームやマンションのエレベーターで、ついついBUMP OF CHICKENについて考えを巡らせてしまう。普段吸わない煙草が吸いたくなるような気持ちになる。そういう一週間を過ごした。たぶんそういう人は街中にたくさんいた。

 

 

怒っているわけではないし、呆れているのともまた少しちがう。こんなゴシップ記事は関係ない!これからもだいすき!と開き直れるほどバカでもないので、いま自分がどういう感情を抱いているのかわからなくて困っている。許す/許さないということではないし、容認する/しないという話でもない。ただそこにある事実として受け入れるしか、いまは受け身がとれない。

これまでもたくさんあった芸能人の不倫報道について、自分なりの意見と理屈を前々から持っていたつもりだったけど、いやはや、自分のすきなものに降りかかってくるとなにもわからなくなりますね。とりあえず、いまはBUMP OF CHICKENのことを考えると心がざらざらします。

 

 

大事なのは、すぐに割り切ろうとしないことだと思う。「サイテーもう聴きません」とか「これで聴かなくなる人は本当のファンじゃない」みたいな過激な言説がたくさん飛び交っていて、これもまたしんどい状況なんだけど、この流れに飲み込まれないように心がけたい。別にいまの時点でBUMPを聴くか聴かないかを判断する必要は全然ないし、そうやってどちらかを選んで高らかに宣言するものでもない。

聴かなくなるなら自然と聴かなくなるだろうし、聴き続ける人はなんとなく聴き続けるだろう。どうなっていくかは今後の自分とBUMPの距離感次第だと思うし、距離感は意志でどういうできるものではなくて”なんとなく”でそうなっていくものだと思う。そのときの距離感をどういう言葉で表現されるものになっているかはわからないけど、過激な意見に惑わされずに自分の言葉でみつけたい。

 

 

BUMP OF CHICKENは運命や絆なんていう容量のでかい言葉に自分たちを嵌め込まない。むしろ運命ほど絶対的ではなく、絆ほど強固なものではないような、優しくもろいもので自分たちを表現するからこそ、そこに誠実さがあったように思う。

僕らを結ぶリボンは 解けないわけじゃない

結んできたんだ

『リボン』 - BUMP OF CHICKEN

離そうと思えばいつでも離せる手を、お互いに離そうとしてこなかっただけ。

そんなふうに思えば、BUMP OF CHICKENがこれからどうしていくのかわからないのと同じように、自分がどうしていくのかわからないけど、でも、できたら手を離さずにいたいなと思えるようになった。

 

こなごなに砕かれた鏡に新しい日の光が映るみたいに、新曲の『アカシア』を聴いている。

<了>