無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

空気階段の冗談と本当の声 - 『キングオブコント2020』

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キングオブコントの審査員の採点は“控えめに言って”アレであるし(ぼくは「控えめに言って」のあとに本当に控えめに言うタイプです)、ヒコさんのブログ『青春ゾンビ』の空気階段批評を読めば皆さんもれなく彼らのことがもっと好きになるはずなので、ここではぼくが個人的に気に入っているポイントや採点に反映されない部分について書こうと思う。

 

たとえば、最終決戦に進出した3組の決勝ネタがどういう舞台設定であったのか。いま一度確認してみる。

「強盗のジャルジャル

「極道のニューヨーク」

定時制高校の空気階段

強盗、極道、定時制高校。こうして並べてみると、空気階段だけが別の競技をしているかのように見えてくる。ネタの構成とかボケの手数とかオチの出来とか、そういうところではない部分で訴えかけてくるようなーーー言葉にするのは難しいが、定時制高校に通う人たちの恋を描こうとする彼らのコントには、この時代の生きるコント師としての「社会へのまなざし」を感じてしまう。ぼくは定時制高校に通ったことはないけど、全日制高校を中退しているので、空気階段のこういうまなざしにはどうしても敏感になってしまって、なんだか無性に嬉しくなるのだ。 *1

言葉にしてしまえば当然のことだけど、キラキラした恋愛が全日制高校の生徒たちだけのものであるはずもなく。たとえばポカリスエットのCMでダンスしている高校生たちや日清カップヌードルのアニメーションで描かれるような学園生活とはまた違うかたちの青春がこの社会のなかにはたくさん存在していることを、空気階段は至極当たり前のこととして表現する。ポカリスエットも日清カップヌードル定時制高校を舞台にしたCMは作らない。だからこそ、そんな世間に感知されざる恋(しかしその他のすべての恋と同等に尊い)の成就を、空気階段はコントとして描く。アオイとハルトでアオハル(青春)になっているのは、つまりそういうことだろう。

ここでブルーハーツを引用するのは少し気恥ずかしいのだけど、「もしも僕がいつか君と/出会い話し合うなら/そんな時はどうか/愛の意味を知って下さい」を地でいくようなコントの美しさが、地上波テレビのゴールデンタイムに映る(≒写る)ことの意義みたいなものを考えれば、空気階段には優勝とは異なるもっとべつのかたちで賛美が送られていいんじゃないかと考えてしまう。(この記事の冒頭で審査員の採点のことを“あれ”呼ばわりしてしまったが、空気階段に2本のネタを披露させてくれたことにはとても感謝している。松ちゃんありがとねー)

 

 

順序が逆になってしまったが、次に1本目のネタ「霊媒師」をふり返ってみようと思う。

亡くなったおばあちゃんにありがとうが言いたいという水川かたまりの依頼により、霊媒師の鈴木もぐらがおばあちゃんの霊を下ろそうとするが、霊の波長と近隣のラジオ放送の波長が近いために誤ってラジオ放送のほうを受信してしまう、という内容。(死んだおばあちゃんにありがとうが言いたいという話の起点がもう愛に溢れとるのよ……)

1本目を終えたあと、ぼくは思わず「賞レース仕様の空気階段だ…」とつぶやいた。とにかくこのコントのなかには特筆すべきポイントが無数にあるのだ。ほかのファイナリストたちのコントが最初のボケまでに長い時間のフリを要したのに対して、空気階段は鈴木もぐらの演じる「瀬川瑛子をサンプリングした独特な発声のキャラクター」は冒頭から客の笑い声を引き起こし、そのキャッチーさがいっそう際立っていたこと。鈴木もぐらが最初にラジオ放送を受信したときには、観客にはそれがラジオの内容だとはわからない程度の会話部分だけを切り取るというさじ加減が絶妙であったこと。さらに小道具の使い方も冴えていて、鈴木もぐらがラジオのヘビーリスナーであることが長いストラップの登場によって非言語的に示されていること。そして終盤、水川かたまりの話す声がそのまま鈴木もぐらの口からもタイムラグなく発声されることによって生じる、コントならではの”ワンダー”で観客の予想を超えてくること。最後のワンダーは、賞レースの審査員が跳ねなかったネタの評価に添えがちな「もうひと展開ほしかった」という決まり文句の、まさに「もうひと展開」と言えるような素晴らしい展開だったと思う。(設定のすべてをひっくり返すような“どんでん返し”だけが大きな展開と呼ばれるわけではないことを、ここで強調しておきたい。)

序盤・中盤・終盤と隙のないネタの構成と、ボケのバランス(キャラ、小道具、掛け合い、観客の予想を超えてくる展開などの配分)がおそろしく完璧で、それでいて空気階段の特長を殺していない。ネタの構成力という点においては、2本目の「定時制高校」を軽く凌駕しているし、今大会のなかではベストアクトではないかと思う。おいおいなんだよこれ、と言いたくなるような「賞レース仕様の空気階段」だった。

 

 

空気階段の2本目のネタが終わったあと、ダウンタウン浜田に感想を聞かれた水川かたまりは、「恋の尊さみたいなのが伝わればいいなと思って。ほんとにそうですよ」とまっすぐ言い放つ。それは去年のキングオブコントの敗者コメントで放った「お笑いのある世界に生まれてきてよかった」という数多のお笑いファンのこころを鷲掴みにしたキラーフレーズと同等の真剣さであった。

学校や職場でくだらないことを言うやつに限って、“嘘だよ”という意味で「冗談だよ」なんてセリフを吐くことがある。だけど、冗談の中身がいつだって嘘だとは限らない。冗談であることをオブラートにして、立場や空気や世間体によって正当なかたちでは言えないような本当の声を誰かに届けることができるのが”冗談”の持つマジックだ。そして、創作された物語であるコントという冗談のなかに水川かたまりは真摯な本音を込めて世に放ってゆく。

「お笑いのある世界」で「恋の尊さ」を謳う空気階段のコントにどうしようもなく我々が胸を打たれるのは、その冗談のオブラートのなかに包まれているものが、嘘ではなく本当の声であると、心のどこかでちゃんと察しているからだろう。空気階段の本当の声は、社会のなかで確かに響き始めている。

 

<了>

 

関連エントリ(昨年書いたかが屋の記事)

*1:しかし同時に、強盗経験のある人がジャルジャルのコントに、極道の人たちがニューヨークのコントに嬉しさを感じているかもしれないので、コントという装置そのものに「社会へのまなざし」は常に含まれているのかもしれない。