無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

空気階段のコントについて - 常人の狂気性/狂人の常識性

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キングオブコント2021』は空気階段の優勝で幕を閉じた。

ぼくはこれまで何組かのお笑い芸人をすきになってきたが、空気階段に対する愛情はそれらの比ではなかったので、推しが賞レースで勝負するのはこんなにおそろしいことなのか……とここ一ヶ月ほどずっとそわそわしていた。

結果としては、最高の成績と最高のコントを2本見せてもらって、とにかく胸がいっぱいである。とてもうれしくなってしまったので、今年の春ごろに書いたもののお蔵入りにしていた記事を公開してしまおうという気持ちになった。

かんたんに要約すると、空気階段の演じるコントは「常人の狂気性/狂人の常識性」を描いているという話を書いている。記事のなかで”狂人”や”常人”という書き方をしていて、あまりいい語彙でないことはわかっているのだけど、人間はそんなふうにカテコライズできるようなものじゃないよってことを言っているので、そこらへんは許してほしい。

読み返している途中で、今日みたザ・マミィのコントの1本目に通ずるものがあるなと気づいた。それはつまりきっと、すべては岡野陽一に続いているということなのだろう。

とにかく空気階段おめでとう。特にこの一年は彼らのコントやラジオに支えられていた。

 

 

空気階段のコントの特徴として、鈴木もぐらと水川かたまりのどちらかが狂気的な人間を演じることが挙げられる。代表的なコントを例にして言えば、『クローゼット』では鈴木もぐら(クローゼットのなかで浮気男に呪いをかける)、『ゆうえんち』では水川かたまり(知能犯のように振る舞う連続全裸事件の犯人)がそれに当たる。

しかし、空気階段のネタは、ただ単に狂気的で怪奇に満ちているというだけではない。そこには常に、社会の潜む"はずれものたち"への愛情に似た優しいまなざしを感じとることができる。昨年のキングオブコントで披露して話題となった「定時制高校」のネタはそれを象徴するものであったし、配信チケットの売上が1万枚を突破した単独ライブ『anna』はまさにそんなまなざしが束になって我々の胸を打ってくる傑作だった。

ではいったい、空気階段のコントのなにがそう感じさせるのか。

 

 

空気階段のコントに狂気的な人間が現れるとき(まあほとんどのネタに現れるわけだけど)、それが鈴木もぐらであれ水川かたまりであれ、その人間が"狂気的であること"自体がネタのキモとなることはほとんどない。いつだって空気階段のコントは、狂人のなかにある人間賛歌こそが本質をなしている。

一見すると空気階段のコントは、どちらかが常人で、もう一方が狂人を演じている、という構図に見える。しかし本来、常人か狂人かで切り分けられるほど人間は単純な生きものではない。常識性と狂気性、その両面をだれもが持ち合わせている。

 

「電車のおじさん」のネタのように、社会のなかで誰もが一度は遭遇したことのあるタイプの、一見ちょっと危なそうな雰囲気のおじさんを鈴木もぐらが演じることが多い。常人か狂人かで言えば、後者だと認識するひとが多いだろう。おじさんは電車のなかで周りのひとたちに迷惑をかけているように見えるが、実際は他人のことを考えて行動する人間であることがわかり、水川かたまりは「やさおじ(やさしいおじさん)でしたぁ!」と叫ぶ。

もし鈴木もぐらが単純に”やばおじ”を演じるだけなら、いまの世の感覚でいえばそれはお笑いとは言えないかもしれない(キモいとされる人物が、キモいとされる言動を見せるだけの笑いには、もう限界があるように思う)。しかし空気階段のネタは、人間のもつ多面性を面白がり、そして人のかわいさを愛でる。常識的にみえる人のなかにも狂気性があり、狂気的にみえる人のなかにも常識性は秘められている。常人の狂気性、狂人の常識性。それを描くことがコントで人間を描くことにつながっていく。

空気階段のコントに、社会の潜む"はずれものたち"への愛情に似た優しいまなざしを感じるのは、彼らがちゃんと人のかわいさを知っているからだろう。

ふたりが人生のなかで経験してきたものを持ち寄り、そしてそれはラジオ『空気階段の踊り場』でさらに増幅されていく。空気階段のコントは、その結晶といえるだろう。

 

(おしまい)