無印都市の子ども

ポップカルチャーの極北

映画『星の子』/ 愛している人が信じるものを信じられない

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映画『星の子』を観てきた。ここ数年で一等好きな小説の映画化だったので、観終わったあとは「悲惨なものにならなくてよかった」という安堵の気持ちが先行してしまったが、冷静になって振り返るととてもいい映画だったなぁと思えてきて、なんだかじわじわ興奮してきた。うおー。

芦田愛菜という最高の主演俳優だけでなく、永瀬正敏原田知世の夫婦という手堅い配役、高良健吾黒木華による新興宗教の若手幹部というハマり具合、映画『告白』のウェルテルを彷彿させるような岡田将生の若手教師役*1ーーすべてのピースがしっかりとハマったキャスティングというのは、原作小説のファンにとってこの上なくうれしいことだ。

そのなかでも特に、芦田愛菜演じるちひろの姉役*2を演じた蒔田彩珠のなんとも切ない演技が、自分には深く刺さりとても印象に残った。家族に落ちる影の部分のほとんどを蒔田彩珠が引き受けていて、彼女の演じる人物の背景が見えないからこそ、誰もが彼女の表情に奥行きを見る。それにしても、芦田愛菜蒔田彩珠が姉妹役なんて、伝説になっちゃうじゃないか。

 

 

あらすじ

主人公・林ちひろは中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく。(朝日新聞出版公式サイトより)


<以下、ネタバレが含まれていますので、まだ観てない方はブックマークなりツイートなりしてから映画館にダッシュだ>

 

  

愛している人が信じているものを 信じきれない

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映画のキャッチコピーには「ちひろだけが、大好きな両親を信じた。」とあるが、両親のことを信じたのはなにもちひろだけではない。ちひろの葛藤は「両親」を信じる/信じないことではなく、「宗教」を信じきれないことにある。

状況を簡潔に整理していく。ちひろは最初から最後まで「両親」のことを信じているが、「宗教」のことは信じきれずにいる。しかし「両親」と「宗教」は完全に結合されており、また結合させたきっかけが自分自身の病気であることに、負い目みたいなものを背負っている。

「両親」のことは信じているが「宗教」のことは信じられない、というスタンスは姉のまーちゃんも同じで、彼女は「両親」と「宗教」の結合を解こうと試みるが派手に失敗する。それでも両親はまーちゃんにあたたかく接しつづけ、またまーちゃんのほうも両親と妹のことをいつまでも気にかけている。(そのことは例えばラストシーンで子供が生まれた報告があったことからもうかがえる。)まーちゃんは、両親が宗教にのめり込んでしまった原因は妹だと考えていながらも、しかし妹に対してまったく恨みを抱いていない。ちひろにとっても、姉のまーちゃんは今もむかしも愛しい存在であることに変わりはない。

つまり、この家族は誰ひとりとしてすれ違いを起こしていない。ただ、障壁として「宗教」があることだけのことだ。

愛している人たちが信じているものを、わたしは信じきれない。この映画を一言で表すとそういう葛藤の物語になる。そしてその葛藤が、ちひろとまーちゃんとで異なる答えを導き出す。「宗教」といっしょに「両親」も切り離すまーちゃんと、最後までどちらも自分の意思では切り離せなかったちひろ。このコントラストは、両親が新興宗教にのめり込み始めるときにはすでにまーちゃんは物心ついた年齢であったことが大きな差として表れたのだろう。

 

 

信じるほうへ足を踏み出した人 の不在

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ぼくは映画を鑑賞した直後に「全体的にはよかった」という変に含みを持たせた感想をTwitterでこぼしてしまったのだけど、その理由は今村夏子の原作小説にあったひとつのシーンが映画ではカットされていることに違和感をおぼえたからだ。

物語の終盤に向けて、星々の郷の会場で抽選に当たった信者たちが舞台の上でなにかを宣言するというシーンがある。劇中では、生涯をかけて心の貧しい人を救うだとか、どこかの国に小学校を建てるだとか、そういう宣言をする人たちだけが描かれていた。しかし原作では花ちゃん(ちひろと同じ中学の女の子で、幼少期から打って変わって明るい性格になった子)の彼氏が抽選に当たり、宣言をするシーンがある。花ちゃんの彼氏は映画では2カットくらいしか登場しない人物なので、たぶん印象に残っている人は少ないだろう。バスに乗り込む前、花ちゃんと話しているちひろに向かってヒョコっと頭を下げた金髪の青年だ。

花ちゃんの付き添いできただけの、「ひかりの星」の信者ではない彼氏は、舞台のうえから信者たちに対して何を宣言したのか。原作から引用する。

「ぼくは、ぼく戸倉りゅういちは、ぼくの好きな人が信じているものが一体なんなのか知りたくて、今日ここにきました」

 そこで一度言葉を切って、スー、ハー、と深呼吸した。

「……ぼくは、ぼくの好きな人の信じるものを、一緒に信じたいです。……それがどんなものなのかまだ全然わからないけど、ここにくればわかるっていうんなら、おれ来年もここにきます。わかるまでおれはここにきま、えー、くることを、おれはおれの好きな人に、約束します」

(中略)

会場から大きな拍手が起こり、ひゅ〜、ひゅ〜、とあちこちからひやかす声が上がった。

 

愛する人が信じるものを信じるか否か」という彼氏の立場は、関係性は違えど、ちひろやまーちゃんと同じ悩みを抱えている。そこで信じるほうへ足を踏み出した人、つまりちひろやまーちゃんとは異なる答えを導き出した人のことは、物語のなかではかなり重要な存在だとぼくは思っている。

今村夏子の原作小説がもつ素晴らしさは、信じようとする人と信じられない人の両方を描き、そのどちらにも寄り添いすぎないという点にあるとぼくは思う。彼氏の宣言シーンがカットされることによって、映画内での「信じるという選択肢」の存在感がかき消されてしまう。それはあまりフェアじゃない。映画の尺の問題なのであれば、ほかにもっと切るところはあっただろう。*3

意図的なのか、結果的にそうなっただけなのか、あるいは単なるぼくの解釈ミスなのか。わからないけど、ぼくにはこの映画が少しだけ「信じない側」に肩入れしすぎているように感じた。

 

 

コーヒーのある世界

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“全体的には”よかったので、よかったところをあげていきたい。

原作にはない「コーヒー」というアイテムの使い方が、若干のくどさは感じたものの、個人的にはとても気に入っている。

真夜中に台所のしたでまーちゃんと飲むインスタントコーヒーや、法事のあとに雄三おじさんの家族と飲む喫茶店のホットコーヒーなど、コーヒーはちひろにとって外の世界の味になっている。それはとてもほろ苦い大人の味。*4

前者のコーヒーシーンでは、蒔田彩珠が姉として妹と話す態度がやわらかく、もうここには帰れないからこそ、この瞬間の会話を大切に思っている仕草や表情がとにかく愛おしい。妹は姉とのああいう日を一生忘れられないだろうなと思う。台所の下というシチュエーションに決めた人の想像力にも拍手を送りたい。ここはめちゃくちゃ好きなシーンなので、配信やBlu-rayになったら何度もリピートしたい。

後者のコーヒーシーンでは、芦田愛菜が親戚と話すときの、緊張して無意識に普段よりも2トーンくらい明るい性格を演じてしまう感じが生々しくてリアル中学三年生だった。いや、まぁ、芦田愛菜はもともとリアル中学三年生なのだけど。おばさんの「おいしいね」に反応し損ねたことに気づいて慌てて返事する感じとか不自然さがなさすぎて、もうこわい。

今回なんとなく感じたことだが、芦田愛菜の演技は、その役の心情がまっすぐに伝わってくるような気がする。観ていて理解がしやすい。芦田愛菜演じるちひろの立場や事情は、矛盾に満ちていてとても入り組んでいるはずなのに、緊張感とか、こころの弾み方とか、胸が潰れる感じとか、不信感とか、ちひろのそういう感情がくっきりとみえる。無駄に曖昧な部分がなく、観ている側に整理されて伝わるのは、芦田愛菜の台本/原作を読む力から来ているのだろうか。

ちーちゃんの好きな人ならうちはいつでも大歓迎だぞという話を両親としながら「先生が両親のすがたを見たらどう思うだろうか」という、両親のすがたを客観視する目の演技も、地味かもしれないが思わずニヤリとしてしまいそうになるうまさを感じた。

 

 

呪いと救いは瓜ふたつ

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ちひろ、という名前をきくと、ぼくはどうしてもジブリ映画『千と千尋の神隠し』を連想してしまう。あの映画では、千尋の両親に対してブタにすがたを変えられる呪いがかけられてしまう。

では『星の子』のちひろの両親が新興宗教にのめり込んでいったことは「呪い」だったのだろうか。もしそうであれば、星々の郷に集まった信者たちはみんな呪われているといえる。だけど、彼らにとってはそれは「救い」であるのかもしれない。家はどんどん貧しくなっていくし、ちひろの家はご近所付き合いもおそらくないだろう。だけど湿疹で泣きじゃくる赤子を前にして、何も施しようがなく3人で喚き声を聞くしかできなかったときのことを思えば。

 

「呪い」の厄介なところは「救い」となかなか見分けがつかないところだ。

信仰することは本人にとって「救い」なのか「呪い」なのか。本人が良ければそれでいいという問題でもないし、雄三おじさんも妹夫婦とその子どもたちのことを思って「呪い」を解こうとしている。外側からみれば「呪い」だけど内側にとって「救い」に他ならない、あるいはその逆のパターンのものなど、宗教に限らずとも、世の中にはそういうものが意外とたくさんある。

 

ラストシーン、星々の郷でなかなか会えなかったちひろと両親がようやく合流し、星のみえる特別な場所に移動する。父親が普段は話題にしない受験のことを聞いてきたり、3人で流れ星をみるまで帰らないという。

ここからはぼくの憶測になる。ちひろの信仰心が薄まってきていることを、両親は教団に相談を持ちかけたのではないかと想像する。そして、集団リンチではないにしても、教団からなにかしらの手がちひろに加えられることが決定したのではないか。両親の態度からして、ちひろと離れて暮らすことになることは察せられる。「家族」と離れ「宗教」と近くなることになるなら、それはちひろの意思とは真逆だ。しかし教団は彼女の意思なんて無視するだろう。春ちゃんの性格の変化がそうであったように、本人の意思は関係ない。「すべては宇宙の意のままに」なのだから。

3人でいっしょに星をみるまで、宿舎には帰らないと両親はいう。宗教団体「ひかりの星」の信者たちにとって、星をみることは宇宙のエネルギーを取り込むこと。宇宙のエネルギーは、ちひろにとって「救い」だろうか、「呪い」だろうか。

それはたぶん、ぼくらが身勝手に判断していいことではないように思う。

 

<了>

星の子 (朝日文庫)

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まなの本棚

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<余談>

上映が終わった瞬間に白いタオルを頭に乗せて出口に向かって歩き出せばきっと人気者になれると思うので、ぜひお試しあれ!

*1:いや、『リーガル・ハイ2』の羽生弁護士のようにと言ったほうが適切か。

*2:正確には同役の幼少期を演じた粟野咲莉の姉役だが

*3:たとえば落合さんちのひろゆきくんの描き方は中途半端で、原作を読んでなかったら一見よくわからない存在になっている気がする。ばっさり切り落としてもよかったのではないかと思う。あとアニメーションのシーン、あれなんなんだ……。

*4:余談だが、漫画『進撃の巨人』では、巨人に怯えながら壁の内側で暮らす人類の文化にコーヒーは存在しない。

空気階段の冗談と本当の声 - 『キングオブコント2020』

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キングオブコントの審査員の採点は“控えめに言って”アレであるし(ぼくは「控えめに言って」のあとに本当に控えめに言うタイプです)、ヒコさんのブログ『青春ゾンビ』の空気階段批評を読めば皆さんもれなく彼らのことがもっと好きになるはずなので、ここではぼくが個人的に気に入っているポイントや採点に反映されない部分について書こうと思う。

 

たとえば、最終決戦に進出した3組の決勝ネタがどういう舞台設定であったのか。いま一度確認してみる。

「強盗のジャルジャル

「極道のニューヨーク」

定時制高校の空気階段

強盗、極道、定時制高校。こうして並べてみると、空気階段だけが別の競技をしているかのように見えてくる。ネタの構成とかボケの手数とかオチの出来とか、そういうところではない部分で訴えかけてくるようなーーー言葉にするのは難しいが、定時制高校に通う人たちの恋を描こうとする彼らのコントには、この時代の生きるコント師としての「社会へのまなざし」を感じてしまう。ぼくは定時制高校に通ったことはないけど、全日制高校を中退しているので、空気階段のこういうまなざしにはどうしても敏感になってしまって、なんだか無性に嬉しくなるのだ。 *1

言葉にしてしまえば当然のことだけど、キラキラした恋愛が全日制高校の生徒たちだけのものであるはずもなく。たとえばポカリスエットのCMでダンスしている高校生たちや日清カップヌードルのアニメーションで描かれるような学園生活とはまた違うかたちの青春がこの社会のなかにはたくさん存在していることを、空気階段は至極当たり前のこととして表現する。ポカリスエットも日清カップヌードル定時制高校を舞台にしたCMは作らない。だからこそ、そんな世間に感知されざる恋(しかしその他のすべての恋と同等に尊い)の成就を、空気階段はコントとして描く。アオイとハルトでアオハル(青春)になっているのは、つまりそういうことだろう。

ここでブルーハーツを引用するのは少し気恥ずかしいのだけど、「もしも僕がいつか君と/出会い話し合うなら/そんな時はどうか/愛の意味を知って下さい」を地でいくようなコントの美しさが、地上波テレビのゴールデンタイムに映る(≒写る)ことの意義みたいなものを考えれば、空気階段には優勝とは異なるもっとべつのかたちで賛美が送られていいんじゃないかと考えてしまう。(この記事の冒頭で審査員の採点のことを“あれ”呼ばわりしてしまったが、空気階段に2本のネタを披露させてくれたことにはとても感謝している。松ちゃんありがとねー)

 

 

順序が逆になってしまったが、次に1本目のネタ「霊媒師」をふり返ってみようと思う。

亡くなったおばあちゃんにありがとうが言いたいという水川かたまりの依頼により、霊媒師の鈴木もぐらがおばあちゃんの霊を下ろそうとするが、霊の波長と近隣のラジオ放送の波長が近いために誤ってラジオ放送のほうを受信してしまう、という内容。(死んだおばあちゃんにありがとうが言いたいという話の起点がもう愛に溢れとるのよ……)

1本目を終えたあと、ぼくは思わず「賞レース仕様の空気階段だ…」とつぶやいた。とにかくこのコントのなかには特筆すべきポイントが無数にあるのだ。ほかのファイナリストたちのコントが最初のボケまでに長い時間のフリを要したのに対して、空気階段は鈴木もぐらの演じる「瀬川瑛子をサンプリングした独特な発声のキャラクター」は冒頭から客の笑い声を引き起こし、そのキャッチーさがいっそう際立っていたこと。鈴木もぐらが最初にラジオ放送を受信したときには、観客にはそれがラジオの内容だとはわからない程度の会話部分だけを切り取るというさじ加減が絶妙であったこと。さらに小道具の使い方も冴えていて、鈴木もぐらがラジオのヘビーリスナーであることが長いストラップの登場によって非言語的に示されていること。そして終盤、水川かたまりの話す声がそのまま鈴木もぐらの口からもタイムラグなく発声されることによって生じる、コントならではの”ワンダー”で観客の予想を超えてくること。最後のワンダーは、賞レースの審査員が跳ねなかったネタの評価に添えがちな「もうひと展開ほしかった」という決まり文句の、まさに「もうひと展開」と言えるような素晴らしい展開だったと思う。(設定のすべてをひっくり返すような“どんでん返し”だけが大きな展開と呼ばれるわけではないことを、ここで強調しておきたい。)

序盤・中盤・終盤と隙のないネタの構成と、ボケのバランス(キャラ、小道具、掛け合い、観客の予想を超えてくる展開などの配分)がおそろしく完璧で、それでいて空気階段の特長を殺していない。ネタの構成力という点においては、2本目の「定時制高校」を軽く凌駕しているし、今大会のなかではベストアクトではないかと思う。おいおいなんだよこれ、と言いたくなるような「賞レース仕様の空気階段」だった。

 

 

空気階段の2本目のネタが終わったあと、ダウンタウン浜田に感想を聞かれた水川かたまりは、「恋の尊さみたいなのが伝わればいいなと思って。ほんとにそうですよ」とまっすぐ言い放つ。それは去年のキングオブコントの敗者コメントで放った「お笑いのある世界に生まれてきてよかった」という数多のお笑いファンのこころを鷲掴みにしたキラーフレーズと同等の真剣さであった。

学校や職場でくだらないことを言うやつに限って、“嘘だよ”という意味で「冗談だよ」なんてセリフを吐くことがある。だけど、冗談の中身がいつだって嘘だとは限らない。冗談であることをオブラートにして、立場や空気や世間体によって正当なかたちでは言えないような本当の声を誰かに届けることができるのが”冗談”の持つマジックだ。そして、創作された物語であるコントという冗談のなかに水川かたまりは真摯な本音を込めて世に放ってゆく。

「お笑いのある世界」で「恋の尊さ」を謳う空気階段のコントにどうしようもなく我々が胸を打たれるのは、その冗談のオブラートのなかに包まれているものが、嘘ではなく本当の声であると、心のどこかでちゃんと察しているからだろう。空気階段の本当の声は、社会のなかで確かに響き始めている。

 

<了>

 

関連エントリ(昨年書いたかが屋の記事)

*1:しかし同時に、強盗経験のある人がジャルジャルのコントに、極道の人たちがニューヨークのコントに嬉しさを感じているかもしれないので、コントという装置そのものに「社会へのまなざし」は常に含まれているのかもしれない。