無印都市の子ども

ポップカルチャーの極北

きれはし

 

 

 

apparel

アパレルブランドに勤めている親戚から突然LINEが届いた。内容を確認してみるとオンラインストアで使えるクーポンコードだった。自分のお気に入りのブランドなので単純にうれしく思ったが、普段連絡をとらない人からわざわざこんなものが届くということは、アパレル産業は本当に今しんどいんだろうなと想像する。とりあえず、そのブランドのなかでは比較的安価なシャツとカットソーを購入した。今はもう夜中なので、明日お礼の連絡を入れようと思う。

 

 

stock

在宅勤務だったので昼寝していたら、株式会社コクヨの最終面接が唐突に始まり「人生経験が少なそうな顔をしているね」とディスられる夢をみた。夕方、起きてからも少しむかついていたが、もしかしてと思ってパソコンをひらき、コクヨの株価をチェックしてみたら案の定、下落していた。それみたことか。ばーかばーか。

 

 

anna

最近のぼくの生きる糧となっているのは「空気階段」というお笑いコンビの存在で、去年のキングオブコントで披露した2本のネタでこころを掴まれてしまった。彼らのコントは社会の隅のほうにいる人たちの存在をちゃんと認知してくれていると感じる。ぼくは前回の記事に<春はみんなが社会的に一歩前進する華々しい季節で、その"みんな"のなかにいつもわたしはいない>と書いたが、”みんな”からはみ出ている人というのはぼくだけではなくて実は社会のなかに結構な数でいる。ただ見えづらいだけで、日陰に生きている。鈴木もぐらも水川かたまりもかつてそういう人であったことが、彼らのコントの核になっているように思う。彼らが今たくさんテレビに出演していることが、まるで自分のことのようにうれしい。サイコゥ!サイコゥ!サイコゥ!

 

 

over

普段、仕事で自動車を運転している。この職に就いたときはペーパードライバーだったが、今ではずいぶん慣れてきて心理的な余裕を持って運転できるようになった。しかし、そういう慣れてきたときにこそ注意しなければならないのが運転というものである。この前、高速道路を走行中にパトカーに止められた。速度違反である。何キロオーバーだったか忘れたが、兵庫県警に18,000円を払うはめになった。まじかよまじかよと何度も口に出したが、まぁ人を轢いたり事故を起こしたりすることに比べたら18,000円は安いのかもしれないな、と自分で納得させた。

 

 

name

ところで高速道路の道路標識はたのしい。知らない街には知らない地名やランプが存在していて、地名の並びがまるで人の名前のように見えることがある。それを採集することが、運転中の地味なたのしみのひとつだ。これまで見つけた名前は、小野稲美、竹野香美、川西小花、高丸舞子。なぜか女性の名前ばかりで、男性の名前を見つけたことはまだ一度もない。

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(引用:https://fumi.ninja-x.jp/DAINI%20SHINMEI2.html

 

 

herb

3月にかが屋が行った有料配信トークライブのなかで、休業から復帰した加賀くんが「整体がいちばん効いた」と力説していたので、ぼくも整体を試してみようかなと思い検索してみた。いろいろな種類があって、継続していくと考えるとけっこう料金が高くつきそうだ。加賀くんが通った整体院はどんなところだったんだろうかと気になったので、インスタグラムで加賀くん本人にDMで聞いてみることにした。返信はあまり期待せず、待ってみる。

 

 

walk

一日中家にいるのもあれなので、夕方からスーパーかコンビニに向かって歩くことが習慣になっている。どこまでも歩いていける気がする。

 

 

joy

悪いインターネットを使ってSMAPが『Joy!!』という曲を歌う映像を観ていたら、メンバーの誰かが引いたくす玉の中から「祝2020年 東京オリンピック決定!!」と書かれた幕が出てきた。ああ、と思った。実際の2020年には東京オリンピックは行われず、SMAPは解散し、その曲を作った人もいない。これは悪い冗談みたいだなと思ったけど、悪い冗談なのは映像のほうじゃなくて、我々のいる2021年のほうだった。

 

 

milk

駒場さんのおかんがどんなふうに毎日過ごしているかという話に対して「幸せやないかい」と「ほな幸せと違うかー」が行ったり来たりして、最終的に「おかんが幸せかどうかなんて他人が決めることと違うからねぇ?!」で落とす内海さんが見たい。

  

 

book

この1年くらいほとんど活字が読めていないのだけど、それでも本屋にはよく出向き、背伸びするような本を買いたくなるから不思議。去年読んだ本のなかでは『向田邦子ベスト・エッセイ』が一等おもしろかった。あとは詩人の文月悠光が紹介していた『傷を愛せるか』という、精神科医宮地尚子さんというかたが書いたエッセイも、文章がとてもきれいでお気に入りの一冊になった。どちらかといえばマイナーな本なのかなと思っていたので、そのあと生湯葉シホさんがポットキャストで紹介していたのを聴いて驚いた。

いまは小津夜景の『いつかたこぶねになる日』とミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』を移動時間に読んでいるが、後者の本は内容が難しくて全然読めていない。余談だけど、カバンに入れられたまま読まれない本のことを「運ん読」と呼ぶらしい。

 

 

off

時東ぁみさんがブックオフで働いていて、しゃがんだときにローライズのジーンズからパンツが少しだけ見えるという夢を見た。さっきのコクヨといい、最近みる夢はどこかおかしい。っていうか脳ってほんとにすごいですね、「時東ぁみ」という情報を収納している引き出しをよく見つけてきたなって思う。

 

 

drama

撮り溜めていたドラマを観て過ごしている。NHK朝ドラ『おちょやん』は脚本も演者もとてもよく、いちばん好きな朝ドラになりそうだ。『ゴジラSP』は久しぶりに観る深夜アニメで、『東のエデン』を観ていたときのようなわくわくがあり、毎週楽しみにしている。もちろん『大豆田とわ子と三人の元夫』も観ている。第4話、というか市川実日子が動き出したあたりから一気におもしろくなった。エンディングも毎回楽しみで、はやくPUNPEE出てこいと願っている。

 

 

movie

昨夜観た映画『朝が来る』の蒔田彩珠の演技がとてもよかった。おれの観たかった蒔田彩珠や!と思った。あと、最近どの邦画を観ていても若葉竜也が出てくる。でも『街の上で』は緊急事態宣言でまだ観てないんだよな。まだ映画館で観られるだろうか、緊急事態宣言の明けたあと。

余談なんですけど、両親にアマゾンのFire Stickを買ってあげてNetflixやプライムビデオが観られる環境を整えてあげた。けれども勝手があまりわかっていないのか、有料チャンネルに登録してしまったり、ネトフリを上位プラン(月2000円!)に変更してしまったりしていて、すこし参っている。

 

 

不要不急と呼ばれるものに日々救われている。ゴールデンウィークに一度だけ、電車にゆられて街に出向いた。必要なものだけを買って帰った。事足りるけど満ち足りない、そんな感じだった。

 

<おわり>

 

映画『星の子』/ 愛している人が信じるものを信じられない

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映画『星の子』を観てきた。ここ数年で一等好きな小説の映画化だったので、観終わったあとは「悲惨なものにならなくてよかった」という安堵の気持ちが先行してしまったが、冷静になって振り返るととてもいい映画だったなぁと思えてきて、なんだかじわじわ興奮してきた。うおー。

芦田愛菜という最高の主演俳優だけでなく、永瀬正敏原田知世の夫婦という手堅い配役、高良健吾黒木華による新興宗教の若手幹部というハマり具合、映画『告白』のウェルテルを彷彿させるような岡田将生の若手教師役*1ーーすべてのピースがしっかりとハマったキャスティングというのは、原作小説のファンにとってこの上なくうれしいことだ。

そのなかでも特に、芦田愛菜演じるちひろの姉役*2を演じた蒔田彩珠のなんとも切ない演技が、自分には深く刺さりとても印象に残った。家族に落ちる影の部分のほとんどを蒔田彩珠が引き受けていて、彼女の演じる人物の背景が見えないからこそ、誰もが彼女の表情に奥行きを見る。それにしても、芦田愛菜蒔田彩珠が姉妹役なんて、伝説になっちゃうじゃないか。

 

 

あらすじ

主人公・林ちひろは中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく。(朝日新聞出版公式サイトより)


<以下、ネタバレが含まれていますので、まだ観てない方はブックマークなりツイートなりしてから映画館にダッシュだ>

 

  

愛している人が信じているものを 信じきれない

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映画のキャッチコピーには「ちひろだけが、大好きな両親を信じた。」とあるが、両親のことを信じたのはなにもちひろだけではない。ちひろの葛藤は「両親」を信じる/信じないことではなく、「宗教」を信じきれないことにある。

状況を簡潔に整理していく。ちひろは最初から最後まで「両親」のことを信じているが、「宗教」のことは信じきれずにいる。しかし「両親」と「宗教」は完全に結合されており、また結合させたきっかけが自分自身の病気であることに、負い目みたいなものを背負っている。

「両親」のことは信じているが「宗教」のことは信じられない、というスタンスは姉のまーちゃんも同じで、彼女は「両親」と「宗教」の結合を解こうと試みるが派手に失敗する。それでも両親はまーちゃんにあたたかく接しつづけ、またまーちゃんのほうも両親と妹のことをいつまでも気にかけている。(そのことは例えばラストシーンで子供が生まれた報告があったことからもうかがえる。)まーちゃんは、両親が宗教にのめり込んでしまった原因は妹だと考えていながらも、しかし妹に対してまったく恨みを抱いていない。ちひろにとっても、姉のまーちゃんは今もむかしも愛しい存在であることに変わりはない。

つまり、この家族は誰ひとりとしてすれ違いを起こしていない。ただ、障壁として「宗教」があることだけのことだ。

愛している人たちが信じているものを、わたしは信じきれない。この映画を一言で表すとそういう葛藤の物語になる。そしてその葛藤が、ちひろとまーちゃんとで異なる答えを導き出す。「宗教」といっしょに「両親」も切り離すまーちゃんと、最後までどちらも自分の意思では切り離せなかったちひろ。このコントラストは、両親が新興宗教にのめり込み始めるときにはすでにまーちゃんは物心ついた年齢であったことが大きな差として表れたのだろう。

 

 

信じるほうへ足を踏み出した人 の不在

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ぼくは映画を鑑賞した直後に「全体的にはよかった」という変に含みを持たせた感想をTwitterでこぼしてしまったのだけど、その理由は今村夏子の原作小説にあったひとつのシーンが映画ではカットされていることに違和感をおぼえたからだ。

物語の終盤に向けて、星々の郷の会場で抽選に当たった信者たちが舞台の上でなにかを宣言するというシーンがある。劇中では、生涯をかけて心の貧しい人を救うだとか、どこかの国に小学校を建てるだとか、そういう宣言をする人たちだけが描かれていた。しかし原作では花ちゃん(ちひろと同じ中学の女の子で、幼少期から打って変わって明るい性格になった子)の彼氏が抽選に当たり、宣言をするシーンがある。花ちゃんの彼氏は映画では2カットくらいしか登場しない人物なので、たぶん印象に残っている人は少ないだろう。バスに乗り込む前、花ちゃんと話しているちひろに向かってヒョコっと頭を下げた金髪の青年だ。

花ちゃんの付き添いできただけの、「ひかりの星」の信者ではない彼氏は、舞台のうえから信者たちに対して何を宣言したのか。原作から引用する。

「ぼくは、ぼく戸倉りゅういちは、ぼくの好きな人が信じているものが一体なんなのか知りたくて、今日ここにきました」

 そこで一度言葉を切って、スー、ハー、と深呼吸した。

「……ぼくは、ぼくの好きな人の信じるものを、一緒に信じたいです。……それがどんなものなのかまだ全然わからないけど、ここにくればわかるっていうんなら、おれ来年もここにきます。わかるまでおれはここにきま、えー、くることを、おれはおれの好きな人に、約束します」

(中略)

会場から大きな拍手が起こり、ひゅ〜、ひゅ〜、とあちこちからひやかす声が上がった。

 

愛する人が信じるものを信じるか否か」という彼氏の立場は、関係性は違えど、ちひろやまーちゃんと同じ悩みを抱えている。そこで信じるほうへ足を踏み出した人、つまりちひろやまーちゃんとは異なる答えを導き出した人のことは、物語のなかではかなり重要な存在だとぼくは思っている。

今村夏子の原作小説がもつ素晴らしさは、信じようとする人と信じられない人の両方を描き、そのどちらにも寄り添いすぎないという点にあるとぼくは思う。彼氏の宣言シーンがカットされることによって、映画内での「信じるという選択肢」の存在感がかき消されてしまう。それはあまりフェアじゃない。映画の尺の問題なのであれば、ほかにもっと切るところはあっただろう。*3

意図的なのか、結果的にそうなっただけなのか、あるいは単なるぼくの解釈ミスなのか。わからないけど、ぼくにはこの映画が少しだけ「信じない側」に肩入れしすぎているように感じた。

 

 

コーヒーのある世界

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“全体的には”よかったので、よかったところをあげていきたい。

原作にはない「コーヒー」というアイテムの使い方が、若干のくどさは感じたものの、個人的にはとても気に入っている。

真夜中に台所のしたでまーちゃんと飲むインスタントコーヒーや、法事のあとに雄三おじさんの家族と飲む喫茶店のホットコーヒーなど、コーヒーはちひろにとって外の世界の味になっている。それはとてもほろ苦い大人の味。*4

前者のコーヒーシーンでは、蒔田彩珠が姉として妹と話す態度がやわらかく、もうここには帰れないからこそ、この瞬間の会話を大切に思っている仕草や表情がとにかく愛おしい。妹は姉とのああいう日を一生忘れられないだろうなと思う。台所の下というシチュエーションに決めた人の想像力にも拍手を送りたい。ここはめちゃくちゃ好きなシーンなので、配信やBlu-rayになったら何度もリピートしたい。

後者のコーヒーシーンでは、芦田愛菜が親戚と話すときの、緊張して無意識に普段よりも2トーンくらい明るい性格を演じてしまう感じが生々しくてリアル中学三年生だった。いや、まぁ、芦田愛菜はもともとリアル中学三年生なのだけど。おばさんの「おいしいね」に反応し損ねたことに気づいて慌てて返事する感じとか不自然さがなさすぎて、もうこわい。

今回なんとなく感じたことだが、芦田愛菜の演技は、その役の心情がまっすぐに伝わってくるような気がする。観ていて理解がしやすい。芦田愛菜演じるちひろの立場や事情は、矛盾に満ちていてとても入り組んでいるはずなのに、緊張感とか、こころの弾み方とか、胸が潰れる感じとか、不信感とか、ちひろのそういう感情がくっきりとみえる。無駄に曖昧な部分がなく、観ている側に整理されて伝わるのは、芦田愛菜の台本/原作を読む力から来ているのだろうか。

ちーちゃんの好きな人ならうちはいつでも大歓迎だぞという話を両親としながら「先生が両親のすがたを見たらどう思うだろうか」という、両親のすがたを客観視する目の演技も、地味かもしれないが思わずニヤリとしてしまいそうになるうまさを感じた。

 

 

呪いと救いは瓜ふたつ

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ちひろ、という名前をきくと、ぼくはどうしてもジブリ映画『千と千尋の神隠し』を連想してしまう。あの映画では、千尋の両親に対してブタにすがたを変えられる呪いがかけられてしまう。

では『星の子』のちひろの両親が新興宗教にのめり込んでいったことは「呪い」だったのだろうか。もしそうであれば、星々の郷に集まった信者たちはみんな呪われているといえる。だけど、彼らにとってはそれは「救い」であるのかもしれない。家はどんどん貧しくなっていくし、ちひろの家はご近所付き合いもおそらくないだろう。だけど湿疹で泣きじゃくる赤子を前にして、何も施しようがなく3人で喚き声を聞くしかできなかったときのことを思えば。

 

「呪い」の厄介なところは「救い」となかなか見分けがつかないところだ。

信仰することは本人にとって「救い」なのか「呪い」なのか。本人が良ければそれでいいという問題でもないし、雄三おじさんも妹夫婦とその子どもたちのことを思って「呪い」を解こうとしている。外側からみれば「呪い」だけど内側にとって「救い」に他ならない、あるいはその逆のパターンのものなど、宗教に限らずとも、世の中にはそういうものが意外とたくさんある。

 

ラストシーン、星々の郷でなかなか会えなかったちひろと両親がようやく合流し、星のみえる特別な場所に移動する。父親が普段は話題にしない受験のことを聞いてきたり、3人で流れ星をみるまで帰らないという。

ここからはぼくの憶測になる。ちひろの信仰心が薄まってきていることを、両親は教団に相談を持ちかけたのではないかと想像する。そして、集団リンチではないにしても、教団からなにかしらの手がちひろに加えられることが決定したのではないか。両親の態度からして、ちひろと離れて暮らすことになることは察せられる。「家族」と離れ「宗教」と近くなることになるなら、それはちひろの意思とは真逆だ。しかし教団は彼女の意思なんて無視するだろう。春ちゃんの性格の変化がそうであったように、本人の意思は関係ない。「すべては宇宙の意のままに」なのだから。

3人でいっしょに星をみるまで、宿舎には帰らないと両親はいう。宗教団体「ひかりの星」の信者たちにとって、星をみることは宇宙のエネルギーを取り込むこと。宇宙のエネルギーは、ちひろにとって「救い」だろうか、「呪い」だろうか。

それはたぶん、ぼくらが身勝手に判断していいことではないように思う。

 

<了>

星の子 (朝日文庫)

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まなの本棚

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<余談>

上映が終わった瞬間に白いタオルを頭に乗せて出口に向かって歩き出せばきっと人気者になれると思うので、ぜひお試しあれ!

*1:いや、『リーガル・ハイ2』の羽生弁護士のようにと言ったほうが適切か。

*2:正確には同役の幼少期を演じた粟野咲莉の姉役だが

*3:たとえば落合さんちのひろゆきくんの描き方は中途半端で、原作を読んでなかったら一見よくわからない存在になっている気がする。ばっさり切り落としてもよかったのではないかと思う。あとアニメーションのシーン、あれなんなんだ……。

*4:余談だが、漫画『進撃の巨人』では、巨人に怯えながら壁の内側で暮らす人類の文化にコーヒーは存在しない。