無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

かが屋のコントとその文学性について

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お笑い第七世代という言葉で一括りにされるなかで、一際大きな才能を感じる“かが屋”のコント。

彼らのネタは、他のコント師たちのネタと比べて一体どこがどう違うのか。そこんところを少しだけ書きたい。

 

 

通常、コントというものは「物語の導入」から始まる。例えばハンバーガー屋のコントをするのならハンバーガー屋に入店するところから始めるのがベターであるし、転校生のコントをするのなら転校生が登場する前に「今日は転校生を紹介するぞ」という先生の告知から始めるのがセオリーだ。

しかし、かが屋のコントはそういった物語の導入をこしらえない。彼らのコントはいつだって「シーンの途中」から始まる。

 

このコントの始まりは、すでにお互いにいくつかのなぞなぞを出し合っている途中から始まる。「暇だし、なぞなぞとか出し合わね?」というような物語の導入はこしらえない。物語の基本とも言える《起承転結》の《起》が描かれていないのだ。

彼らの発する言葉には、登場人物の関係性や状況を説明するようなセリフ(いわゆる説明セリフというもの)は存在しない。説明されないままにさらっと始まったコントのなかで、彼らの言葉尻や立ち振る舞いを手掛かりに観客たちはコントの状況を徐々に察してゆく。つまり、観客たちがあらかじめ欠落した《起》を想像していくことで、しらずしらずのうちにかが屋の空気感を自ら掴みにいくように仕掛けられている。

 

このようにあらかじめ始まりが欠落しているコントは、たとえ終わりが欠落していても観客にストレスは生じない。始まりらしい始まりから始まらないので、オチらしいオチがなくても締まるのだ。

前述したハンバーガー屋の例で言えば、入店から始まったストーリーは退店(もしくはお会計)まで済ませないと物語として締まらない。しかし、入店から始まっていなければ、退店まで描写していなくてもそこに不自然さは生じない。

かが屋年金問題ネタにおける「目ぇ見ぃ」は光り輝く至極の一言ではあるが、彼らにとっての年金問題が解決した言葉ではないし、彼女が改心する言葉までは描けていない。だがそれでいい。起承転結の《転》、つまりコントの絶頂であるクライマックスで幕を下ろすことができる。

 

《起》や《結》といった手続きを行わないことによる利点はさらにもうひとつある。

それは、かが屋が本当に描きたい部分にネタの時間を使うことができるという点だ。本当に描きたい部分ーーそれは一瞬の感情の揺らぎであり、常識から半歩ズレた情景の切り取りのことである。

それらを丁寧に描いていくからこそのかが屋である、ということについては誰もが認めるところであろうから、彼らにうってつけのコント形式であることには疑いようがない。

おそらく計算してこのコント形式にしたというよりは、自然とそうなったという感じなのではないかと推測する。そして自然に必然なものを選びとってしまうことを、たぶん世の中ではセンスと呼ぶんだと思う。

 

 

まとめる。

多くのコント師が登場から退場までのワンシーンすべてを見せる形態のコントを採用しているのに対して、かが屋はすべてを語ろうとはせずに感情の揺らぎを摑まえるコントを行う。

前者が短編小説のような「物語」だとすれば、かが屋のコントは「俳句」や「短歌」といった表現に近いと言えるだろう。つまり、かが屋はコントを(物語的に)語るのではなく、コントを(俳句的に)詠んでいる。

どちらが上でどちらが下かという話ではない。かが屋のコントが他のコント師の作品に比べて何か一線を画す印象を受けるのは、つまりこういうところに由来するのではないか、なんて思ったわけでした。

〈了〉

芸人芸人芸人 (COSMIC MOOK)

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