無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

『オクジャ/okja』 - 世界がそれを愛と呼ばなくても

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自分だけの価値観から「物語」はうまれる

映画を観ていて、作り手が意図したものとは異なるメッセージを勝手に受け取ってしまうことが稀にある。恋愛映画なのに職業選択の重要性が心に残ったり、反戦映画なのにサクマドロップの広告映像として受け取ってしまったり……といった具合に。
映画や小説をはじめとする「物語」が、卒業論文や社内報告書などと決定的に異なるポイントは、そういうところの「自由さ」にあるとぼくは思う。つまり、読みたいように読める自由さということだ。(そして、意図を読み間違えがちな物語ほど、世界中で名高い古典文学であったり、ずっと記憶に留まるような名作映画であったりする。)

もちろん、これは映画や小説に限ったことではない。テレビCMや漫才、同僚との世間話だってそうだ。

具体例をあげよう。ちえみさんというキャリアウーマンが、ふたりのイケメンを携えて颯爽と登場する姿を眺めながら、ぼくは社会から求められる「無駄のなさ」という思想はいったいどこからやってきたのかと考えてしまう。
「効率的な仕事ぶり」や「生産性」を求められる社会で、それらを賛美しながらも、その流れに抗いたくなるのはいったいどうしてだろう。
無駄のない、誰にとっても“Best”な存在の姿を追い求めながらも、誰かにとっての“Favorite”な存在になることにこそ価値があるんだとか考えてしまう。35億人のなかでNo.1にならなくても、自分にとってお気に入りになればそれでいいんじゃないか?(そう思うこと自体が、たとえ幼稚な幻想だったとしても。その考え方自体を、安っぽいネットスラングに落とし込まれたとしても。)
本当に手にいれたい価値。それがなんなのか。わたしたちはわかりかけているはずなのに、すぐに見失ってしまう。

 


okja - 難しく考えようとすればどこまでも難しく考えられる内容であるからこそ

しかしこうやって、人の価値観の迷走、あるいは喪失、あるいは揺らぎなどから、「物語」は生まれるのだとぼくは思う。
ふたたび具体例をあげよう。映画『オクジャ/okja』の主人公が物語を通して表現するのは、価値観の揺らぎのなさだ。

 『オクジャ/okja』は、Netflixという世界最大級の映像コンテンツ配信のプラットホームで製作された映画だ。批評性の高い内容もさることながら、Netflix発というこの映画が作られた経緯も含めて、「今っぽい」と言えば安い言葉に聞こえるかもしれないけど、今観ておくことに価値があるように思った。

この映画の主役である「オクジャ」という大きな豚は、巨大なグローバル企業の企画によって産み出された特別な種“スーパーピッグ”で、大きなカラダはぶくぶくと肉づき、エサが少なく済む上に排泄物も少ない。そしてなにより、美味いそうだ。つまり、ぼくたちが食べるために科学技術が産み出した効率的な豚だ。
片田舎の家畜農家で、そのスーパーピッグ・オクジャとともに育ち、親友のように接していた少女は、オクジャを無理やり引き取ろうとするグローバル企業に対して迷いもなく立ち向かう。食用として産まれてきたオクジャの運命に抗うのだ。
巨大なグローバル企業の欲や、動物愛護団体のエゴイズム、あるいは金銭のやり取りや社会的な立場など、大人の醜い欲望の渦の中に巻き込まれながら、少女は一貫して「オクジャを救う」という目的を見失わない。少女のその意思を無駄だと切り捨てるのは、大人たちにとっては赤子の手をひねるようなものだろう。
しかし、少女の言動はどれも賢いとは言い難い選択であるはずなのに、結果的にはそれが人を動かす力となる。
少女の揺らぎのなさが、物語をドライヴさせてゆくのだ。

 

映画の結末はそれなりにショッキングなものであるけど、そこで示される価値観は安易なグローバル批判や極端な反肉食主義的なものには陥らない。それらを批判したところで、グローバル化によって大いな恩恵をぼくたちが受けていることは明白であるし、システマティックに生産された豚肉をぼくたちが日頃からたくさん食べている事実に変わりはない。

難しく考えようとすればどこまでも難しく考えられる内容であるからこそ、何が正しいか?どうあるべきか?という問いに対して、断定的な回答や綺麗ごとの正論などを提出しようとはせず、ただ、少女は自分自身の正義を貫いたまでに過ぎない。
今の時代に問題を投げ掛けようと試みる表現者の、もっとも誠実な姿勢ではないかとぼくは思う。 

 

 

世界を相手取るストーリーテラー

予告映像を観ただけでもわくわくするけど、ソウル市内を暴走するオクジャのアクションは見ものだ。市街地や高速道路などの現実社会の中を架空の生き物が派手に暴れる映像には格別な快感がある。(どういう心理なんでしょうね、最高!って思いますよね。)
例えば2016年の邦画『シン・ゴジラ』を観て、日本に住んでいるからこそ楽しめる部分があったように、ソウル市民だからこそ楽しめた部分もあるのだろうと思うと、少し悔しい。しかし日本の商業施設に似たショッピング街や、『シン・ゴジラ』でも登場した「緊急時であってもiPhoneをかざしてしまう人たち」など、描写される社会の情景に日韓間でそれほどの差異はないように思えた。
ポン・ジュノ監督は、日本カルチャーから多大な影響を受けていることを来日した際の会見で述べている。『となりのトトロ』のような愛らしくも恐ろしい空想の生き物と『風の谷のナウシカ』のように果敢に戦う少女の姿を見ると、ストーリーテラーとしてのポスト・宮崎駿が必ずしも日本から生まれるとは限らないし、アニメの世界から生まれるとは限らないのだなと感じた。『オクジャ/okja』という映画の存在もまた、グローバル化による恩恵のひとつだ。

 

娯楽的に楽しめる映像の連続でありながら、矛盾を含んだ倫理哲学が示され、エンディングに向かってエモーショナルな転覆をたたみ掛けるように物語は展開していく。

映像的にも物語展開的にも恐ろしいくらい効果的に視聴者を刺激する。ぼくもそれに圧倒されて、2017年に観た映画の中でNo.1になった。
「おすすめとして推したいもの」と「自分にとっていちばん面白かったもの」はたいてい乖離しがちだけど、『オクジャ/okja』はその両方においてNo.1だ。

 

 

“Best”ではなく“Favorite”を追い求めたい

映画を観終わったあと、少女にあれほど愛されているオクジャを羨ましく思ったけど、本当は違う。オクジャをあれほど愛せる少女のことが、羨ましくてしょうがなかったのだ。

地図でしか知らないような土地であっても、少女は躊躇なく旅立つ。ソウルによく似てるけどソウルではない都市が、いったいどれほど遠い場所にあるか、少女は知っていたのだろうか。

 

冒頭でも言ったように、映画を観ていて、作り手が意図したものとは違うなにかを受け取ってしまうことがある。

そして、それに救われることもある。

大量の「いいね!」を集めるフォトジェニックな写真や、爆発的に共感を生むつぶやきなど、みんなでその価値を共有できる“Best”なものだけが持て囃される世の中で、自分だけにしか価値を持たない“Favorite”なものを守り続けることは簡単ではない。


そんな“Favorite”をしっかりと守り抜くことを“愛”と呼ぶならば、この映画は少女からオクジャへの「愛の物語」なのだろう。

その愛はふたり以外には共有されない価値観なのだから、世界がそれを愛と呼ぶかどうかなんて、ふたりには関係のない話だ。
<了>

架空の夏を追う - 『そして父になる』

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慶多くんの好きな季節はなんですか?
夏です。
今年の夏には何をしましたか?
お父さんとキャンプへ行って、凧揚げをしました。
お父さんは、凧揚げお上手ですか?
とても上手です。

 

是枝裕和監督作品『そして父になる』の冒頭は、私立小学校の入学面接のシーンから始まる。
面接官と向かい合ってお行儀よく座っている男の子は、「野々宮慶多です」「6歳です」「誕生日は7月28日です」と自己紹介をする。
慶多を挟んで座っているふたり(福山雅治尾野真千子)が夫婦関係であることはなんとなく察せられるし、慶多がふたりの子どもであるということは誰の目にも明らかだろう。一瞥しただけで3人の関係性が分かり、しかも私立小学校の面接を受けていることから裕福な家庭であることが予想できる。 

「面接」というシーンから始まることによって、視聴者は登場人物の情報を自然な流れで頭にインプットすることができる。

これほど多くの情報をワンシーンに詰め込んでおいて野暮ったい表現にはならないのは、是枝裕和監督の力量とセンスだからこそ成せる技なのだろう。

 

上で引用した会話文は、そのシーンで交わされる慶多と面接官のやり取りなのだけど、実は慶多もお父さんも本当はキャンプには行っていないし、凧揚げもしていない。

この日のために通っていたお受験塾の講師からそう答えるようにと教わっていたのだ。面接終了後にそのことを知った福山雅治は、「大したもんだなお受験塾っていうのは」と感心する。映画の主題となる「父と子の距離」も、この科白に暗示されている。

 

そして父になる

そして父になる

 

2013年に公開された映画『そして父になる』。6年間育てたひとり息子・慶多が、出産した病院で取り違えられた他人の子だと判明する。育ての子か、実の子か。子を取り違えられた二組の夫婦は、互いに交流を深めながら、答えのないような果てしない問題と対峙し、葛藤していく。

 

ぼくはこの映画に「夏」を見た。夏をテーマとした映画ではないが、「父と子の距離」をめぐる中で重要になってくる季節こそが夏なのだ。そしてそれは、ぼくたちが過ごしてきた夏、あるいは過ごせなかった夏ともどこかで繋がっている問題でもあると思う。

 

 

生活

順調に成功者としての人生を歩んでいた野々宮良多(福山雅治)の家庭と、町の小さな電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家庭は、何もかもが対照的だ。

それは特に裕福さという点において、住宅や料理、自家用車などに両家の違いが顕著に現れる。ホテルのようなタワーマンションと寂れた電気屋、黒い高級車と白い軽トラ、一眼レフと安っぽいデジカメーー数えればキリがない。

 

野々宮家と斎木家は家族ぐるみの交流を重ね、週末だけ相手方の家に子どもを寝泊まりさせることになる。野々宮良多はそれを「慶多が強くなるためのミッション」「大人になるためのミッション」だとして慶多に説明する。

それぞれが育ての親のもとを離れて、実の親のもとで夕飯を食べるのだが、琉晴は野々宮家で高級なすき焼きを振舞われ、慶多は斎木家でホットプレートで焼いた餃子を斎木一家とともに囲む。
対照的でありながら、そこには単純には比べられない明暗があって、そのコントラストに観ていて心苦しくなる。

どちらがおいしいのだろう。どちらの料理が、どちらの子にとって、おいしいのだろう。

 

慶多という少年はいかにも育ちの良さそうな大人しい男の子であるのに対して、琉晴は育ての父と同じ関西弁で喋るやんちゃないたずらっ子だ。ストローを噛む癖まで育ての父に似ている。

しかし、やはり育ての両親とは似てないところもあって、それは入れ違いが発覚したあととなるとより大きな違いとして浮き彫り立ってくる、ように親には思えてしまう。

育つ環境というのはその子の性格を形成する大きな要因のひとりであるが、それと同じくらい血の影響は大きく、またそれが持つ意味も重い。

 

両家の生活水準の高低差を感じるたびに、ぼくはこの映画を観ながら「自分の家庭・生活はどのへんに位置するのだろうか」と心の隅っこでこっそりと量ってしまう。子の入れ違いという特殊な状況でありながら、観ている自分も他人事にはならないのは、なんとなくそういう意識が働くからかもしれない。

ちなみに、うちはどちらかと言えば斎木家寄りだ。ストローは噛まないように気をつけている。そうさせるのは、育った環境だろうか、血だろうか。

 

 

誰が何になるためのミッション

慶多が「大人になるためのミッション」として斎木家で楽しく過ごす一方で、琉晴は野々宮家で退屈してしまったため早めに打ち切り、慣れ親しんだ斎木家へと帰ってしまう。
野々宮夫婦は、慶多を手放すことに現実味を帯び始めている状況に、そして実の子である琉晴と親しくなれないでいることに苦悩する。
特に野々宮良多は琉晴とうまく接することができず、妻とのあいだにも軋轢だけが生まれてゆく。しかしその亀裂は、子どもの入れ違いが発覚する前から積もり積もったものであり、父として家庭を顧みなかった過ちがそれをきっかけに露呈していっているのだ。
野々宮良多は慶多に対して「子どもの交換」を「大人になるためのミッション」と説明しておきながら、実のところそれは「野々宮良多が父になるためのミッション」でしかなかったことを徐々に実感してゆく。

「子どもの交換」は、視点を変えれば「親の交換」である。

 

 

架空の夏を追う

映画の終盤、子どもたちが相手方の家に慣れ始めた頃に、子どもは正式に交換されることが決まる。

野々宮家は慶多を手放し、琉晴を引き取る。斎木家は琉晴を手放し、慶多を引き取る。
交換が決まったあと、最後の思い出という雰囲気の中で、野々宮家と斎木家は一緒に川辺でバーベキューをする。

斎木家が用意したであろう凧を河原で揚げようとするが、その川辺には鳥が来ないようにネットが張っており、凧揚げができない仕様となっていた。

慶多くんの好きな季節はなんですか?
夏です。
今年の夏には何をしましたか?
お父さんとキャンプへ行って、凧揚げをしました。
お父さんは、凧揚げお上手ですか?
とても上手です。

家族でキャンプへ行った夏の思い出も、凧を上手に揚げる父親の姿も、現実には存在していなかった。
そんな架空の夏を追うように、最後の最後で川辺にやってくるが、凧は揚げられない。架空の夏はやはり架空で、慶多に嘘を吐かせたままに、親子の夏は終わる。

 

思えば、夏という季節は「何かを思い描いては達成されずに終わる季節」だ。

現実の夏よりも、思い出の中の夏のほうがずっと美しく、「こうあればいいな」「こういう夏を過ごしたいな」と想像する夏は更にもっと美しい。だけど、それは大抵手が届かない。

好きな男の子と夏祭りに行く妄想をする女の子の夏、地区予選2回戦敗退の野球部員が想像する甲子園の夏、父親とキャンプへ行く空想をする6歳児の夏ーー

架空の夏を追い、手が届かないままに夏を終える。

ゆえに夏の終わりは物悲しく、やり損ねた何かに思い焦がれてしまう。

 

そして父になる』という映画は、過ぎ去った季節を描きなおす物語だ。

父として慶多と向かい合えていなかった「空虚な6年間」、実の子と過ごすことのできなかった「欠落の6年間」。時間はもちろん不可逆だけど、季節は何度でも巡る。まったく同じでなくても、また違うかたちで夏を描きなおすことはできる。

ぼくらは何度でも架空の夏を追う。それはたぶん、希望なのだと思う。

<了>

 

そして父になる

そして父になる

 

画像:(https://twitter.com/soshitechichi/status/383520903901872128 より)