無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

BUMP OF CHICKEN『話がしたいよ』の“ガム”が意味するところ

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BUMP OF CHICKENの新曲『話がしたいよ』がとにかく最高だという話は、Twitterで散々しているのでもういいだろう。

 

昔はBUMP OF CHICKENに似合わないタイアップがつくことに憤ったり、それってどうなんだよと言わざるを得ない楽曲に呆れたりしていたが、もう今となっては「BUMP OF CHICKENが長く活動し続けているだけでありがたや(´ー`)」という仏の域に達している。 20代なかばのいい大人なファンは、だいたいこんな感じか、もしくはBUMP OF CHICKENから遠く離れてしまった人たちも多いだろう。

そんな仏モードな我々でさえも手放しで喜んで大はしゃぎしてしまうような、This is BUMP OF CHICKENな新曲が飛び込んできて、さらにMステ出演とまできたら……。そりゃあ泣いてしまう。泣いてしまうよ。

そんな感無量な気分の中、いまさらになってBUMP OF CHICKENの歌詞を考察するのも確かに野暮な話ではある。だけど今回の楽曲の核となる“ガム”というガジェットに対して、ネット上ではあまりに乱暴な解釈が見受けられるので、今回は自分なりにガムが意味するところについて書いてみようと思う。

 

 

ガム 

あなたが生きているこの世界は、2つに大きく区分することができる。それは「あなたの身体の外側にある世界」と「あなたの身体の内側にある世界」だ。

「あなたの身体の外側にある世界」とは、今あなたの目の前にある物から町や世間、人間関係や社会といったものたち。

そして「あなたの身体の内側にある世界」とは、思い出だとか夢だとか空想だとか、頭の中に広がる想像力の世界のこと。どちらも無限に広がる宇宙空間だ。

 

BUMP OF CHICKENの『話がしたいよ』では、バスを待つあいだでだけその内側の世界に想いを寄せる。

冒頭の歌詞にある、持て余した手を自分のポケットに入れる行為は「自分ごとポケットに隠した」という描写が示すように、自分の内面に閉じこもることを意味する仕草だと理解して間違いない。

主人公は来たるバスのことや信号機のこと(つまり外側の世界のこと)を今だけは気にせずに、「自分の過去」や「今も宇宙の果てを飛ぶボイジャー」、そして「ここにいない君がこの瞬間にどうしているか」にまで想像力の意識を飛ばす。

 

大人になって慌ただしく生きていると、内側の世界をないがしろにしてしまったり、あるいは忘れてしまったりもすることも珍しくない。

普段の我々といえば、隙あればiPhoneを取り出しがちで、休息中も仕事や学校のことを考えてしまいがちで、「それの何がどうだというのかわからないこと」を想像するのはとても贅沢な時間の使い方だ。

ボイジャーのゆくえも、今ここにいない人のことも、あの日の自分を思い出すことも、他人から見れば非生産的で意味のない思考であり、そういうものは社会からあまり歓迎されない。生活の中で切り捨てられていきがちな思考活動であり、時間的にも気持ち的にも余裕のある「おまけみたいな時間」にだけ巡らせることのできる世界だと言える。

 

 

さてここから本題である。

単刀直入に言うと、ガムというアイテムは内側の世界に潜り込むときのきっかけとして機能している。

主人公はガムを噛み始めることを合図に内側の世界に浸り、ガムを吐き出すことで意識を外側の世界に戻す。

つまり、ガムは内側の世界にログインするためのものであり、そして最後にペッと吐き出すことで内側の世界からログアウトする。

ガムを吐き出すという描写が最後にあるからこそ、バスに乗り込んだあとはきみのこともボイジャーのことも考えずに、例えば夕飯のメニューや明日の仕事内容といった実用的な物事について考えているだろうと推察することができる。

 

うまい。すごくうまいと思う。

正直言って、BUMP OF CHICKENの楽曲でこんなにも効果的に小物を使う歌詞は今までなかったように思う。

表現がとてつもなく洗練されていて、我々の思い出補正を取り除いて考えてみれば、BUMP OF CHICKEN史上最高の楽曲なのでは?と本気で思っている。

 

 

あの頃の自分との対話

ここからは僕の偏った解釈なので話半分に聞いてもらいたい。

歌詞の中の「君」がどういう人物を差しているのか問題である。僕には「過去の自分自身」にしか聴こえない。

 

あの頃の自分と今の自分は、同じようでありながらも別の人間であり、あの頃の自分が今の自分を見たらどう言うだろうか、あるいは今の自分はあの頃の自分に対してどんな言葉を投げかけるだろうか、という意味での「話がしたいよ」だと僕は思っている。

そう考えるといろいろと整理がつく。同じようにしていても他人同士なのは、あの頃の自分と今の自分のことであって。きみの苦手だった味は、あの頃の自分が苦手としていた味であって。どうやったってあの頃に戻れないけど、あの頃の自分と同じようにボイジャーのこととかを思っていたいということであって。

「ガムと二人になろう」という表現も、ガムを噛むことで内側の世界にいる「あの頃の自分」のことを考えると解釈すれば、ここで擬人法が採用されるのも当然である。

 

「抗いようもなく忘れながら生きているよ」という歌詞があるように、きっと昔の自分にとっては何よりも切実で大切な数字であったであろうボイジャーの時速が、大人になってしまった今では一体何キロであったのかが思い出せない、というところが妙にリアルだ。

ボイジャーの時速を忘れてしまった今の自分のことを、あの頃の自分は軽蔑してくるかもしれない。「今までのなんだかんだとかこれからがどうとか心からどうでもいいんだ」と言ってくるアラフォーに対して、あの頃の自分は「うるせえお前に何がわかるんだよ前髪切れよ」と啖呵をきってくるかもしれない。

今考えてみればどうでもいいことだと思えることも、あの頃の自分にとっては絶体絶命なわけで、「大丈夫、わかってる」なんて言っても納得しないだろう。

だけど、それでも、言ってやりたいじゃないですか。

 

<了>


死ぬほど価値のあるものはもっと別にある -大阪モード学園のCMについて-

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8月31日。少年少女が学校に行きたくなさ過ぎて死んでしまうのは、裏を返せば学校にそれだけの価値があると思い込んでしまっているからで、よくよく考えればさすがに死ぬほどの価値はない。

とはいえ各々抱えている状況は異なるだろうし、一概には言えないのだけど。

地方の公立中学や高校なんてのはたいてい理解不能な貶しやばかばかしい論理で社会が回っている。そんな歪みのひとつとしてイジメというものがあり、自分がイジメの対象であるかどうかは別として、そういう空気に疲れてしまうのはよくわかるし、よくわからない奴らしか自分のまわりにいないことに疲れてしまうのもよくわかる。

そういうものに打ち勝っていくことを強さ、うまくやり過ごしていくことを賢さ、くだらない争いから降りることを勇気と呼びたい。だけど、死ぬのはさすがに負けじゃないですか、と思う。その敗戦処理を自分の親に託すと思うと、ちょっとしんどくないですか。

 

 

「人は10代半ばから後半にかけて聴いていた音楽を一生聴くようになる」という話をなにかで読んだことがある。

ぼくはこの年齢(27歳)になっても新しく出会った音楽にガンガン感動するし、確かに10代半ばに出会ったBUMP OF CHICKENはこれからも自分にとっての神様であり続けるだろうけど、新しいジャンルにも手を広げられるだけの柔軟さは持っているつもりだ。

10代で感性が止まっているわけではないが、あの頃の感覚が今も自分の中に残っているのは確かで。例えばですけど、今年は甲子園をよく観ていて、その時によく流れていた大阪モード学園のCMにぼくは心打たれてしまい、あやうく願書を取り寄せてしまうところだった。 


 

 

8月31日。どうか死なずにと、そんな文章をはてなブログで書いたところで、届いてほしい人には届かない。そんなことはわかっている。(ぼくのTwitterフォロワーに高校生はいるのだろうか…?)

SNSには先輩ぶって語りたいだけの大人たちと、その言葉を称賛する大人たちばかりがいて、当の本人たちはそこにいない。我々は彼らに言葉を届ける術を持たない。届いたとしても、鬱陶しがられるだけだ。

 

届くべきところに届けられるだけのポップさを持っているのは、普段大人が舐めてかかりがちなティーンカルチャーだったりする。

死にそうな彼ら彼女らにメッセージを届けられるのは、SEKAI NO OWARIであったりヤバイTシャツ屋さんであったり、ヒカキンであったり竹内涼真であったりする。そういうものの影響力を舐めてはいけないと強く思うし、だからこそソフトバンクのCMには怒りを覚えた。

 

死ぬほど価値のあるものが学校であるはずもなく、かといって死んでも離したくないようなものも持ってないのなら、とりあえず登校するふりしてマクドとか行けばいいし、保健室は結構おすすめだし、図書館は涼しくて居心地いい。

教室が世界のすべてではないし、一度逃げたところで逃げ続ける人生にはならない。

 

イヤならやめちゃいましょう!
苦しいなら逃げちゃいましょう!
でも 好きなことだけは死んでも離すな★

 

このCMのメッセージが人気イラストレーターのポップでカラフルな絵で動き、カリスマバンドのキャッチーな音楽に乗せて8月の地上波テレビに流れることの素晴らしさよ。

<了>