無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

ボブ・ディランが「文学」を再定義する

ボブ・ディラン氏にノーベル賞、文学界で賛否噴出

今年のノーベル文学賞に米歌手のボブ・ディラン氏(75)が選ばれたことを受け、文壇には「衝撃が走った」と言っても、まだ控えめな表現になるだろう。

フランスの小説家、ピエール・アスリーヌ氏はAFPに対し、「ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」と語り、選考委員会に対する憤りをあらわにした。

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純粋な文学

昔がどうだったのか、僕はよく知らないけれど、少なくとも今の文学に対してどこか排他的な印象を持っている人は結構多いんじゃないかと思う。半年に一度選ばれては話題となる芥川賞の受賞作は、読んでみても何が面白いのかよく分からないという人は多いだろうし、芥川賞好きな僕からしても「まぁそう思うのも仕方ないよなぁ」と思ったりもする。
純文学というものの面白さを、純文学読まない人に伝えるのはとても難しくて、著者や出版社、書店、そして純文学ファンが、そこんところの面白さを理解してもらうことを怠った面もある気がする。わかる奴にだけわかればいい、というような態度がないこともないので、排他的な印象を持つのは当然なのかもしれない。


本来は「前衛的過ぎてちょっと訳わかりません」みたいな文章は全部『純文学』という枠組みに入っていいはずなのに、こんなものは文学ではない!とか、文学とは〜であるべき!とか、純文学の定義を狭めることに熱心な人がこの業界には割と多い。純文学というものの純度を高めようとしているのかもしれないけど、定義を狭めて限定していくという行為は自分で自分の首を絞めるようなもので、そんなことをしていたら文化として痩せ細っていく一方だと思うんだけどなーーなんていつもtwitterの隅で憂いてる。

 

 

ボブ・ディランの風穴

2016年10月13日、ノーベル文学賞の発表はいつも木曜日だそうだ。一語も聴き取れないスウェーデン語の会見の言葉の中にHaruki Murakamiの名前がありゃしないかと耳を潜めていたハルキスト達は、思いもよらない、しかし懐かしみのある名前を聴くこととなった。

ボブ・ディラン。知らない街で中学生の頃の同級生に会ったような驚きと妙な感動がその瞬間にはあって、Twitterで結果を知った僕も「おいおいまじかよ(笑)」と笑うしかなかった。

ボブ・ディランノーベル賞文学賞。驚きと笑いが徐々に静まってきて冷静な気持ちになってみると、うんうん確かにこの選出は最高だなっ!と僕は一人で頷いていた。
今回の受賞は、文学という言葉の解釈を広げ、言葉の意味を再定義したことになる。ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞することに疑問を持つ人はもちろんいるだろうけど、ボブ・ディランは文学ではない!と言い切る人はTLを見る限り誰一人もいなかった。ボブ・ディランは文学だった。ボブ・ディランはまた一つ、新しい壁に新しい形をした風穴をあける。

 

前衛的な作品を選ぶ国産の文学賞芥川賞も、もっと混沌としていってほしいなーと個人的には思う。極端かもしれないけど、原稿用紙の枚数では測れない文学作品があってもいいんじゃないかーー例えばそれは立方体の作品だったり、綺麗な閃光だったり。(自分でも何言ってんのか分からない。)

ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞するのなら、松田青子の短編がR-1ぐらんぷりに出場してもいいと思うし、サカナクショングッドデザイン賞を受賞するべきだろう。詩人がアイドルの賞レースに出るのは大歓迎だし、誰かの人生はバロンドールに値するかもしれない。

極端に振り切ったことを言ってしまったけど、サカナクショングッドデザイン賞はかなり現実的だと思うので、ビクターは早急に根回しを始めるべきだろう。

 

 

多様

大阪の繁華街・心斎橋だけを切り取って見ても、その通りにはいろいろな国の人がいて、いろいろな考え方の人がいる。そして大小問わず様々な衝突が起きている。

一体何が絶対的に正しいのか、明確には見えてこない世の中で、いま唯一辛うじてこれは正しいと僕が信じられる価値観は、いろいろなものが共存していくという多様性だと思っている。

多様性は文化を豊かにする。僕の知人の娘さん(7歳)はズートピアのDVDを購入して以来、毎日観続けているらしい。確かにあの映画には中毒性がありそうだ。ズートピアを幼少期に観た子どもは未来にどんな社会を求めるのだろう。 

何者も拒まないこと。

文学賞の最高峰がそんな価値観を示してくれたことを、一文学ファンとしてうれしく思う。

<了>

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

 

 

 

2016年の宇多田ヒカル - Fantômeと俺の彼女

 

9月28日にリリースされた宇多田ヒカルの新作アルバム『Fantôme』。6年間に及ぶ“人間活動期間”を経て、8年ぶりとなるオリジナルアルバムを引っ提げ、ようやくようやく、歌姫の帰還。

 

アルバム全体について語るのはちょっと難しいので、前作がリリースされた2008年を振り返り、今作の僕のお気に入り曲『俺の彼女』から新しい宇多田ヒカルの視点について探ってみた。余談だけど、宇多田の歌詞がいろいろ変化していく中で、荒野の狼やシェイクスピアなどの文学要素が削ぎ落とされていなかったことにちょっと安心しました。宇多田ヒカルさんは永遠の文学少女なのだ。

Fantôme

Fantôme

 

 

 

2008年の宇多田ヒカル

HEART STATION

HEART STATION

 

前作アルバム『HEART STATION』がリリースされたのが2008年なので、約8年ぶりとなる新作アルバム『Fantôme』。2008年〜2016年の8年間で、日本の音楽を取り巻く市場や、社会における音楽の在り方は大きく様変わりしたように思う。8年前にはなかったもの、あるいはまだ芽が出ていなかったものを数え始めると、たぶんキリがないだろう。

例えば、2008年のオリコンシングルランキングを見れば、1位2位には嵐が君臨し、そのあとにサザンや羞恥心、Mr.Children青山テルマが並ぶ。*1羞恥心を企画した島田紳助はその後芸能界から姿を消し、青山テルマはもうあなたのそばにはいない。まぁそんなことはどうでもよくて、今のランキングと見比べてみると、やはりAKB48によってオリコンシングルランキングがハッキングされる以前である、という点が大きいように思う。女性アイドルグループが乱立する前夜だ。

2015年にはLINE MUSIC、AWAApple MUSICなどの【定額制音楽ストリーミングサービス】が登場した。

そもそも、『HEART STATION』発売時点ではまだiPhoneが日本で発売されておらず、同年7月にようやく3Gが解禁となったのだった。(3G!今もう7だよ!)まだみんながガラケーを使っていた頃、TwitterFacebookに日本人ユーザーはほとんどいなかった。今となっては当たり前だけど、アーティストがtwitterInstagramを使って情報を発信するようになったのは2008年以後の話だ。そんなふうに振り返ってみると、インターネットの風景もずいぶんと変化したなぁと改めて思ったりする。『HEART STATION』を聴いたときの感想を、僕はブログかどこかに書いただろうか。憶えていない。

 

6年に及ぶ活動休止を経て、あの震災を越えて、すっかり姿かたちを変えてしまった日本の音楽シーンに、宇多田ヒカルが帰ってくる。

どれくらい売れるものなのか、僕には全然検討がつかない。でもまぁその道のプロはそれなりに妥当な数字をもう弾き出しているんだろうなぁーなんて思っていたけれど、全然そんなことないみたいだ。

なにはともあれ、歌姫の帰還。大変うれしい。

 

 

Fantôme

この数日間はなるべく『Fantôme』だけを聴くようにしていたけれど、なんとも難しい曲が多くて、みんなよくそんなにすぐに感想を言葉にできるなぁと感心する。ポップでありながらも、一気に飲み込めない苦味もあって、もっと時間を掛けて聴いていかないと僕には色々分からないような。

かつての宇多田ヒカルの歌はどこか架空の国のお話のように聞こえるものが多くて、今作はそんな寓話性が薄まったように思える。

椎名林檎宇多田ヒカルの完全復活について出したコメントが、そのすべてを物語っていると思う。

椎名林檎コメント>

 彼女の復帰について

生まれてこのかた彼女はずっと、浮遊していたのかも知れない。そして今初めて東京へ着地してくれたのかも知れない。なんちゃって勝手に感じ入る私をどうか赦して欲しい。

http://realsound.jp/2016/09/post-9254.html

 

俺の彼女

宇多田ヒカルのアルバム全体を咀嚼するにはもう少し時間が掛かりそうなので、とりあえず今一番気にいっている『俺の彼女』という曲について書いていきたい。アルバムの2曲目。

 

これはあくまでも「僕の感覚では、」という話だけど、これまでの宇多田ヒカルの歌詞は常に宇多田ヒカル本人が主人公だったように思う。『Automatic』も『First love』も『光』も、聴きながら頭に浮かび上がってくる映像は、いつも宇多田ヒカル本人が主人公であり、宇多田ヒカルの物語だったわけだ。

それが今作は宇多田ヒカルでない人物が主人公の曲が多く収録されている。たとえば『ともだち』『荒野の狼』、そして『俺の彼女』。

それらの歌詞は宇多田ヒカルの物語ではない。宇多田という女性シンガーが「俺」という男性の一人称で歌っているからそう感じる、という話ではない。『日曜の朝』において「彼氏だとか彼女だとか呼び合わないほうが僕は好きだ」と語っていた「僕」は、宇多田ヒカルの言葉として少なくとも僕は受け取ることができていた。

「俺の彼女は〜」と語る「俺」は、宇多田ヒカル自身ではない。もちろん「彼女」も宇多田ヒカルではない。

そこに登場する男女は、宇多田ヒカルによる創作物だ。元ヤンカップルっぽい雰囲気の2人が主人公。愛され女の条件!みたいな下世話な内容から始まり、物事を表面的にしか見ていない男と「いい女」を演じ続けることを辛く思う女のウラの心情が表現される。しかし歌詞の後半で、何も考えていないように思えた男が抱えた心理が明かされる。

下世話な内容の語りから、セックスを越えて、もっともっと内面へーーお互いの魂に触れようと手を伸ばし合う瞬間までを描く5分間。5分間でそこからそこまで跳ぶことができるのか……その技量がすごすぎて笑える。物語は急展開ではあるけれど、そこに無理な力は入っていない。曲の後半、歌詞の物語が展開すると同時に音楽が厚みを増し、2人は心の深いところへ堕ちてゆく。

歌詞に登場する「俺」と「彼女」は、どちらも宇多田のことではないし、聴き手のことでもない。創作物、架空の人物を使ってここまで深いところへ潜っていけるシンガーソングライターはなかなかいないように思う。ぱっと頭に浮かんだのは中島みゆきくらいだ。

 

2人は元ヤンカップルっぽい雰囲気、と書いたけど、僕は最初に湘南乃風純恋歌』を連想した。

 

どうやらそれは僕だけではなかったみたいで、まったく同じものを連想した人もいた。

 

歌詞の中にマイルドヤンキー的なアイテムが登場するわけではないし、そういう口調で語っているわけでもないないのに、そういう人物像を聴き手に連想させる。宇多田ヒカルの作詞テクニックの一つだ。

男性の一人称に「僕」ではなく「俺」を起用していることや、恋人を「俺の彼女は」と表現する感性、それらの言葉の選択の積み重ねによって、彼らがどのような人物なのかを僕たちは勝手に想像して人物像を造形していく。いや、造形させられていくのだ、宇多田ヒカルによって。

 

オレノカノジョ。

たった7音の中に、ちょっと普通じゃない量の情報が含まれている。含ませることのできる宇多田ヒカルの怖ろしさよ。この人はやっぱり作家だと痛感する7音だった。

 <了>

Fantôme

Fantôme

 
1998年の宇多田ヒカル(新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル(新潮新書)