無印都市の子ども

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西野カナの歌詞を考察してみた。

 

西野カナの書く歌詞を「幼稚で空っぽだ」と否定する人がたくさんいて、それを嘲笑うコピペや「会いたくて震えてる(笑)」と小馬鹿にする言葉が2ちゃんねるTwitterで広まっています。

しかし、そうやって西野カナを馬鹿にしても、西野カナ西野カナの書く歌詞が人気であるという事実に変わりはありません。

仮にもし西野カナの歌詞が幼稚で空っぽなものだとするならば、「じゃあ何故そんな幼稚で空っぽのものが人気になったのか」について考察しなければいけないと考えるのが普通だと思うんです。

そんなわけで、この記事では西野カナの歌詞を考察してゆきます。

 

 

西野カナの歌詞に感動した」「歌詞ヤバい」という声はよく聞きますが、本当はその歌詞に重ねた「自分の恋愛感情」に感動しているのではないかと僕は考えています。

つまり、西野カナの歌詞は聴き手の恋愛経験(恋や失恋の実体験)を盛り上げる為の補助として機能しており、聴き手は歌詞とシンクロさせた自分の恋愛経験に感動している。というような形です(西野カナは「感動するコンテンツ」ではなく「感動する為のツール」って感じ)。

 

聴き手が歌詞に自分の恋愛経験に当てはめる際、当然歌詞は匿名的でシンプルであるほうが聴き手は想いを重ねやすい。具体的な風景描写や心情は(西野カナが歌詞に書き起こさなくても)聴き手の記憶の中にそれぞれ持っているものでセルフ補完するので、匿名的でシンプルなほうが良いのです。他の歌手の歌詞に登場するような、具体的な思い出や風景描写はむしろノイズでしかないわけです。歌詞と恋愛経験がシンクロすればもうこっちのもの。西野カナの歌声が、聴き手のありきたり恋愛を「感動できる物語」にまで盛り上げてくれます。

 

※西野ファン(聴き手)は、こういったシンクロさせる聴き方をしているので、誰かに西野カナを否定された時に、まるで自分の恋愛を否定されたように錯覚してしまうのだと思います。だからブチギレるのです。女の子の前で西野カナを小馬鹿にしてはいけません。

 

 

  • 宇多田の「私」と西野の「私」

たとえば宇多田ヒカルの歌詞の中に登場する「私」は、きっと宇多田ヒカル本人だと思って聴き手は受け入れていると思います(というか僕はそういう風に聴いています)。

でも西野カナの歌詞に登場する「私」は、いつだって聴き手本人です。

たとえば中年男性が「西野カナが好きなんです」と言った時に、「えっ気持ち悪い」と感じるのは、その男性が「自分の恋愛」と「西野の歌詞」を重ねていると想像してしまうからではないでしょうか。きっとそこに気持ち悪さを感じるのだと思うんです。でも、「宇多田ヒカルが好き」ではそうはならないですよね。

 

 

彼女の歌詞に具体的な街の名前はほとんど出てきません。

若い世代(ケータイ世代)のカリスマなんて言われているのですから、地名(渋谷や原宿)やランドマーク(東京タワーやSHIBUYA109)の名前が歌詞に出てきてもおかしくなさそうですが、彼女の歌詞に地理の概念はありません。

その理由は簡単です。西野カナが好きな女の子の多くは地方住みで、東京や渋谷なんて地名にはリアリティを感じないからです。テレビで観たり、観光地として行くような場所に、自分の恋愛を重ねる事なんてできませんよね。

また、彼女の歌詞には、物理的に距離があることを意味する言葉として連呼される「会いたい/会えない」と、心理的距離を無にできる「ケータイ」が核としてあるので、その二つで距離の有無は表現しきっているのだと思います。

 

 

歌手本人の世界観やオリジナリティがある場合は必ずその歌手でなければいけないが、匿名的な歌詞であれば別に西野カナが歌わなくてもいいんじゃないかという考えがこの記事を書きながら少しよぎりました。でも、こんなにも「匿名的なルックスで、売れても尚地方ヤンキーっぽさが残る、歌唱力抜群の女の子」なんて、他にいませんよね。

 

 

  • 終わりに

まず断っておくと、僕は別に西野カナ信者というタイプではありません。西野カナについて特別に詳しいわけではないので、このブログ記事を読んで「いやいやそれは間違ってるよ」と思われる方もいると思います。

僕は自分が絶対的に正しいなんてこれっぽっちも思っていませんが、ただ歌詞の表面だけ見て嘲笑ってしまうのは「やっぱりおかしいよなぁ」と感じるので少し頑張って文章にしてみました。

正直に言ってしまうと、『会いたくて震えてる(笑)』というフレーズを小馬鹿にしながらお友達とニヤニヤするコミュニケーションはそれなりに楽しいんだと思います。「こんなを言うとあの子は傷つくだろうなぁ」と分かっていながら、でも面白いから言っちゃうって事は、日常生活の中でもたまにありますよね。その「傷付くと分かっていながら面白さが上回って小馬鹿にし続ける」という形式は、僕の知っている「イジメ」にすっごく似ているなって思うのです。(本人たちはイジメだとは思っていないところもそっくり)

実際、西野カナの表現活動は萎縮している印象を受けます。ある時期から歌詞に「会いたい」という言葉がなくなりました。(いや、でも新曲は新曲で良い感じの曲だけどね)

 

ケータイ後のコミュケーションを歌っているのはまだ西野カナくらいしかおらず、そういう意味で彼女の書く歌詞にはとても興味があるので、僕は応援し続けたいです。

それから、「会いたい」と「ケータイ」の物理的/心理的距離の話はもっと面白くなりそうなので年内にそれに関する新しい記事を書きたいと思っています。 

 

※【追記】西野カナ考察第二弾を書きました。→ http://shiomilp.hateblo.jp/entry/2013/03/03/205046

 

 

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