全国のほとんどの書店がそうであるように、僕が働く書店にも明日の朝荷物が届き、その本は陳列される。
おそらく「話題書」として、店内のそれなりにいい位置に置かれるだろう。きっとどこの書店も凝ったPOPを付けることはなく、ただ静かに置かれるだろう。
1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の加害男性(32)が、「元少年A」の名で手記「絶歌」(太田出版)を出す。犯行に至った経緯や事件後の生活、現在の心境などをつづっている。
(神戸連続児童殺傷事件、元少年が手記出版:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASH695KC1H69UCVL01C.html)
大阪に暮らす人にとって神戸がそれほど遠い街でないように、97年当時まだ小学生になったばかりの僕と僕の両親にとって酒鬼薔薇聖斗事件はそれほど遠い話ではなかった。
Wikipediaを読んで改めて思うのは、酒鬼薔薇聖斗の事件は良くも悪くもとても刺激的で興味のそそられる事件であることだ。人はそれについて語りたくなり、それを通して何かが見えた気になる。
事件が起きた瞬間から、少なくとも2015年6月11日まで、その魅力性は維持されている。
あまり気持ちの良い好奇心ではないけれど、僕の中にそんな好奇心が存在することは否定のしようがない。僕だけではない。多かれ少なかれ皆そうだ。
だからこそ出版されることになったのだろうし、だからこそその事件をリアルタイムで経験していないはずの世代にも議論が飛び交うのだろう。
書店に並ぶ本のほとんどは、結局のところ娯楽について書かれたものだ。小説やコミック、ファッション誌、スポーツ。あとは学問。
ところが最近はある種の思想性を帯びた本も多く入ってくるようになってきた。いわゆる嫌韓本や“日本は世界から尊敬されている本”だ。
書店員として働く上で、こんな本が売れるのはなんだかなぁと思うことは多々あるが、あまり深く考えずに済んでいたのは、それが「国」という大きな単位の話だったからだろう。
しかし、酒鬼薔薇聖斗はどうか。
当時十四歳の彼と、亡くなった子どもたち、そして今日会見を行った被害者家族の父親。街は神戸。そう遠くない街の、そう遠くない人達。
それについて色々考えを巡らせることは長い時間を掛けて多くの人たちが行ってきただろう。たまに忘れて、また思い出して。
しかし僕は、書店員は、明日それに対して一つの態度を取らなければいけない。
「日本史上稀に見る猟奇殺人事件の犯人」がそのステータスを利用して、その遺族に無断で手記を出版する。もう既に話題になり、それなりの印税が彼に入るだろう。遺族は出版中止を求めて会見をしている。
それを私たちは店頭で援護するのか。極論を言えば、届いてすぐ返品することも可能ではある。少しだけ試されているような気持ちになる。難しく考え過ぎだと思われるかもしれないが、僕にとってはそれなりに覚悟がいる。
普段はどうしても忘れがちになるけど、書物を陳列することはとても思想的な行為だ。そういう認識いても間違いではないだろうと思う。少なくとも明日は、そういう“意味”が含まれることをお客さんも理解して見るだろう。
はじめから結論は出ている。
本は売らなければいけない。冒頭でも書いたように、店内のそれなりに“いい位置”に僕は置く。お客さんから問い合わせがあれば即案内できるようにアルバイトの人たちにも「今日はこういう本が発売になって、ここに陳列しておくよ」と伝える。
うちは小さな本屋なので数冊しか入荷しないけれど、本部の人間が追加発注を手配してくれるだろう。
本は売らなければいけない。会社がそういう態度を取るなら、そうする。
本心はどうか。それを販売すること、売上にすること、酒鬼薔薇聖斗の印税になってしまうことについて、どう気持ちを処理すればいいのか。
一つの態度表明として、僕はこの記事を書き、いつも載せているAmazonのリンクは貼らない。
<了>