無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

チャットモンチーの解散 /『コスモタウン』から見る高橋久美子の文学性

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チャットモンチーが解散する。

ドラム・高橋久美子の作詞が好きだったぼくにとっては、「高橋久美子の脱退」の時点ですでにひとつの終止であったのだけど、それでもやはり「チャットモンチーそのものが消滅する」というニュースは今の自分にも衝撃だった。Kiroroのように細々と続けていけばいいのに…とも思ったが、チャットモンチーについていろいろ思い返してみると「いや、そういうことではないわな」という結論にどうしようもなく至ってしまう。どんな集団の、どんな事情であれ、解散するときは解散するというか、仕方のないことなんだなとつくづく思う。

1stアルバム『耳鳴り』2nd『生命力』を聴き返しながら、10代の頃は上手に言語化できなかったチャットモンチーへの思い、そして高橋久美子のクリエイションについて、今なら少しくらいは書き残せるのではないかと思った。とはいえ、思いの丈のすべてを書き起こせるほどの自信は到底ない。だけど、それでも。

 

かつて、ボーカル・橋本絵莉子は「私はハンバーグになりたい」と言っていた。メルヘンチックなそのセリフは、四国三人娘のふわふわした雰囲気をあらわす言葉として消費されがちだが、そこには<お弁当の蓋を開いた瞬間に「わぁハンバーグだ」と言ってもらえるような存在になりたい>という確かな意思を持っていた。

橋本絵莉子がそんなハンバーグ的な存在であらんと突き進む人物であるとすれば、ドラム・高橋久美子を同じ“お弁当ワールド”で表現するとしたらきっと白飯になるだろう。お弁当を開いて「わぁごはんだ」と歓喜の声をあげる人はいないが、他のどんなバリエーションのお弁当にも必ずと言っていいほど白飯は入っている。ハンバーグは存在感の強さゆえに、シャケ弁には呼ばれないし、唐揚げ弁当にも呼ばれない。しかし「シャケだ!」「唐揚げだ!」の声のそばにはいつも白飯がいる。

チャットモンチーが「ここぞ!」というタイミングでリリースするシングル曲には、必ずと言っていいほど高橋久美子が作詞した楽曲が起用されてきた。橋本絵莉子の天才的な(こんな感じで弾いたらええんじゃろ?ジャーンみたいな)作曲センスに、高橋久美子の“日常を丁寧に生きる歌詞”は寄り添うように言葉がはまる。

誰かの大好物に挙げられるような主役的な存在になるのか、地味ながらも安定して選ばれ続けるような存在になるのか。音楽の方向性、いや生き方の方向性として、橋本絵莉子高橋久美子は根本から異なっていた。もともと小学校の先生になるつもりだったという高橋久美子を、橋本と福岡が粘り強く誘ったのがチャットモンチーだ。

そんな個性の違いがあるからこそ、バンドとしての化学反応は大きく膨らんでいったとぼくは思うのだけど、その違いがバンドの終末へと繋がったのかは分からない。

高橋久美子脱退の理由然り、チャットモンチー解散の理由然り、具体的に想像しようと思えばいくらでも架空の筋書きを並べることはできそうだが、好き勝手な憶測ほど本人たちにとって不本意なものはないだろう。理由なんて、本人たちだけが分かっていればいいし、それを暴く権利は誰も持っていない。

しかし。楽曲に対しては、誰にでも自由な解釈が許されている。アーティストの言葉に自分の恋愛を重ねてしまえるくらい私的なものにできることは、ポップスが持つ醍醐味のひとつであろう。

だから、ぼくは、チャットモンチー解散の弔辞の代えて、彼女たちの楽曲の中で最も好きな『コスモタウン』について少しだけ書こうと思う。高橋久美子のことばに宿る“生命力”、それをあなたが嗅ぎ出すための小さな“風穴”になればと思う。

 

 

●コスモタウン

チャットモンチーには、シングルカットされていない良曲、“隠れ名曲”と呼ばれるようなものが数多く存在する。『湯気』『真夜中遊園地』『コスモタウン』『片道切符』など、カップリングやアルバム収録曲でありながら高い支持を得ていて、その多くは高橋久美子による作詞だ。

まるで児童文学作家のエッセイのような、高橋久美子の作詞は生活に対する愛おしさに満ちている。彼女が描くドラマティックの訪れは、決して特別な場所ではない。実家のリビングに飾られた写真や、駅から塾までの道のり、逆上がりの練習をする夕暮れなどにドラマティックは宿っている。日々の発見と発明だけが、眼に映る世界に彩りを与えるのだ、と言わんばかりに、平凡な暮らしを描写する。

そして、そんな日常の風景にも、宇宙ほど広い“奥行き”があることを『コスモタウン』では歌い上げる。

昼間には見えなかった真夜中の国道(日常風景の非日常な姿)。「ほらあれが北斗七星だ」と教えてくれた祖父の手、そこに刻まれた皺が伝える何十年という過去。失った野球ボールを見つけられなかったあの子が歩んだ未来。それらがひとつの町の中にあり、そこを通り過ぎてゆくニヒルな笑いの彼。

あらゆる人や物が共鳴することで、“わたし”の心の中に“幼いおさげのわたし”を召喚させる。浮かび上がってくるのは姿だけではない。声や感触、気持ちまでもがよみがえる。

とにかく何もかもが逆説的で、過去の野球ボールを想うことが想像力を未来へと飛躍させるし、この町の国道を描写することが宇宙の広大さを思わせることになる。

マクロな目線を持とうとするほど世界は萎む。等身大の眼差しで、暮らしの中の細やかな出来事を見逃さないことだけが、宇宙とか永遠とか、そういうものに近づけるのだと高橋久美子は考えていたのかもしれない。

もしそうだとしたら、「ぼくもそう思ったんだ」と伝えたい。たぶんぼくは『コスモタウン』を聴くたびにずっとそう思う。

 

* * *

 

国道沿いのツタヤで借りた『耳鳴り』。短期バイトの給与で購入した『生命力』。カップリングの『湯気』欲しさに中古で購入した『恋の煙』。そして『橙』のカップリングとして、明らかに人と違う光を感じた『コスモタウン』。その光の名前は、今にして言葉にするならば“文学性”と呼べる。

さっきはこの記事のことを「弔辞」だなんて書いたけど、読み返してみて「ああ、ちがうわ。これ、ラブレターだ」と気がついた。高橋久美子さんへのラブレター。あなたがバンドを脱退してから随分経ってしまったけれど、ようやく書けました。

 

四国から出てきたあなたの言葉は、全国に流通されたあなたたちの音楽は、大阪の田舎町に住むぼくの元にも届き、たった2ギガしかないiPod nanoに詰め込んでは、安いイヤホンで何度も聴いていました。あなたの言葉の世界観がそうであったように、2006年でも2018年でも、東京でも四国でも、いつでもどこでも等しく響くことが、いつか希望になればいいと思います。

高橋久美子さん、ぼくはあなたの詞をとても愛していました。きっと、これからもそうです。

<了>

CHATMONCHY Tribute 〜My CHATMONCHY〜

CHATMONCHY Tribute 〜My CHATMONCHY〜

 

キャラメルウォールナッツをふたつ注文できない - 文月悠光『臆病な詩人、街へ出る。』

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このあいだ、ちょっとした用事のあとに友人とクリスピークリームドーナツに寄った。ぼくはキャラメルウォールナッツが好きで、ほんとはそれをふたつ食べたいのだけど、同じものをふたつ注文するのはすこし気恥ずかしい。複数個のドーナツを注文するのなら、系統の異なるドーナツを選べよ(チョコ系とクリーム系といった感じで)という暗黙の了解が、どこからともなく伝わってくるのだ。結局、ぼくはキャラメルウォールナッツと、もうひとつはオリジナルグレーズドを注文した。(ふわっとした食感と甘いシュガーコーティングがおいしかったのだけど、とりあえずそれは置いておいて。)

そんなとき、ぼくは思う。もしもぼくに“ほとばるほどの才能”があれば、キャラメルウォールナッツをふたつ注文することができたんだろうなと。(でも実はそれも間違っていた、というのが今回の話です。)

 

才能さえあれば、多少エキセントリックな言動をとっても許される気がしていた。たとえば『情熱大陸』などでよく観る“偏食”。毎朝カレーを食べるナ・リーグ首位打者や、チョコレートしか食べない社会学者、レトルトカレーの袋にストロー差し込んで飲む科学者。

ぼくにも『情熱大陸』に出演できるような才能があれば、キャラメルウォールナッツをふたつみっつよっつ注文しても「あー好きなんすよねー笑」で通るのだ。やっぱり才能あるやつはちょっと違うな、となるはずだ。才能があれば、その副作用として、いろんなことが社会から許される。レトルトカレーの袋にストロー差し込んで飲んでも許される。もしもぼくが昼休みにそれをすれば、職場の女性陣に「潮見さんがレトルトカレーそのまま食べてた、というか飲んでた」「気持ち悪い」「社会性ないとは思ってたけどここまでとは」「普通にひく」と悪い噂になるだろう。

ああ、才能があれば、才能があれば。

 

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

 

 『臆病な詩人、街へ出る』の著者・文月悠光は、史上最年少で中原中也賞を受賞した新進気鋭の詩人で、紛れもなく“ほとばしるほどの才能”の持ち主だ。それでなくとも「詩人」という肩書きは、大胆な偏食が許される程度には社会から逸脱した(ように思われがちな)職業だろう。

そう思っていたのだが、どうやらそんなこともないらしい。

TSUTAYAと私と「永遠」>という章に、彼女が十代の頃にコンプレックスを植え付けられたというエピソードがある。

「自分はジャズや洋楽をよく聴くのですが、文月さんはどんな音楽が好きですか?」

 私は深く考えずに、スピッツくるりaiko相対性理論と、ラジオ番組で知ったJ-POPアーティストの名前を挙げた。

「へえ、詩人のくせに案外普通なんですね」

(中略)

 「詩人のくせに普通」というコンプレックスが植えつけられたのは、そのときのことだった。

 

詩人ではないぼくは、こういう類の悩みを持ったことがない。(書店員なのに東野圭吾をすすめるのはどうなんだろうと考えることはあるかもしれないが、人にそう言われることがないのは、書店員という職業に対して誰も特別な見かたをしてないからだ)

詩人だったら逸脱してOKやろ?という考え方は、詩人って逸脱してるもんやろ?という謎理論へと簡単にひるがえる。よく知らない職業や人種に対して、よく知らないくせに、いやよく知らないからこそ、一方的なイメージで勝手に期待して、勝手に「裏切られた」なんて顔をしてしまう。

 詩人のくせに普通? 詩人だから奇特? お好きにどうぞ、と思う。みんな自分の「普通」を振りかざしたいだけではないか。

どちらかといえばあらゆることに消極的で、社会的な経験値も乏しいぼくは、それらのエピソードを読みながら「生きづらさ」に共感し、そしていままでの勘違いに気づく。

仮にぼくに何かしらの才能があったとしても、きっと今のぼくと同じように(あるいはこれまでの文月悠光と同じように)他人にどう思われるか?などに囚われがちになって、あらゆることに臆病なままなのだろう。

ナ・リーグ首位打者になろうと、アートとテクノロジーを駆使した魔法使いのようなサイエンティストになろうと、永世竜王になろうと、あるいは史上最年少で中原中也賞を受賞して高校生詩人になろうと、きっとぼくはキャラメルウォールナッツをふたつ注文することはできない。そこじゃない、そこじゃなかったんだ。

彼女の抱える「生きづらさ」は、詩人の生きづらさであると同時に、誰もが抱える普遍的な生きづらさでもある。「詩人だから」が理由や根拠にならないことと同じように、「才能がないから」が言い訳にはならない。結局のところ、そういうことだった。

 

* * *

 

エッセイのあとがきで、彼女は「臆病」を克服するのではなく、ときに「臆病」な自分と、ときに「勇敢」な自分のグラデーションを楽しもうと言う。

でも「臆病」という一つの言葉で自分を捉える必要はない。表の顔は強くて完璧に見える人も、場面によっては脆く心配性になる。人は「臆病さ」と「勇敢さ」のグラデーションを持って生きているのだ。

(中略)

臆病さを「克服する」努力から退散したい。「臆病」と「勇敢」のグラデーションを、自分自身で楽しんでみよう。臆病な気質を否定することなく、甘えの材料にもすることなく、心地よい距離感で向き合い続けたい--。

なるほど、と思う。腑に落ちた気がしたのだ。

突然だが、ぼくはアイドルの欅坂46が好きで、彼女らの冠バラエティ番組『欅って、書けない?』を観ている。彼女たちは番組を通して、グループ内での自分の立ち位置や個性を見つけていく。アイドルの消費のされ方として「育てる」や「成長を見守る」といった表現をよく見かけるが、まさにそんな感じだ。成長は「欠点を克服する」というニュアンスで受け止めがちだが、ぼくは欅坂のメンバーが「隠したい欠点や認めたくないコンプレックスを自分の個性として手懐ける瞬間」が見たくて『欅って、書けない?』と鑑賞しているのかもしれないと、そう気づいた。(もちろん、手なずけられるようになることも「成長」である) 

それはまさに臆病と勇敢、理想と現実といったグラデーションを楽しんだ先にこそある光だろう。そのことに気づいたとき、「あ、やっぱり文月さんってアイドルだったんだな…」と、思わずニヤケてしまった。

 

* * *

 

文月悠光の名前をはじめて知ったのは、新聞の片隅で史上最年少中原中也賞受賞の記事を読んだときだった。中原中也賞の存在を知ったのは、川上未映子の受賞がきっかけだった。川上未映子を知ったのは芥川賞を受賞したからで、芥川賞の存在を認知したのは確か綿矢りさの受賞がきっかけだった気がする。

ぼくは本を読み始めた時期がずいぶん遅いのだけど、自然と「読むべき本」ではなく「読みたい本」だけを追ってきたように思う。自分の直感に従って進んでいった先に、詩人・文月悠光はいた。

それはたぶん、ぼくにとって誇れることであるし、文月悠光は自分にとって特別な作家になるということなんだと思う。誰にも奪えない、損なわれることのない「永遠」の。

<了> 

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)