無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

映画『四月の永い夢』と朝倉あきという女優について

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映画『四月の永い夢』を観てきた。大阪では九条にある映画館「シネ・ヌーヴォ」でしか上映されておらず、平日昼間、700席ほどのこじんまりとしたスクリーンで、10人ほどの客の中に交じって鑑賞してきた。

この映画が世間でどのように評価されているかは知らないが、ぼくは楽しく観ることができた。しかし同時に、邦画特有の退屈さが無かったわけではないので、人に薦めるのは少し難しいかもしれない。

滝本初海、27歳。中学の音楽教師を辞めて3年、近所の蕎麦屋でアルバイトをしている。変わらない日常のなかにふと訪れた一葉の手紙。それは3年前の春に亡くなった恋人が初海に向けて書き遺したものだった。隣の工場で働く青年からの求愛、かつての教え子との再会、そして初海自身が隠していた想い。一葉の手紙をきっかけに、変わることのなかった真夏の日常が少しずつ動き始める。滝本初海の止まっていた季節が、再び動き出すまでの物語。

 

ただ、個人的にこの映画をめちゃくちゃ評価したいと思うのは、とにかく朝倉あきの魅了を思いっきり引き出している、という点である。「朝倉あき」という女優に対する解釈が、自分と監督で完璧に合致したような手応えを感じた。「そうだよな、朝倉あきってそうだよな」と語り合いたい。あとで知ったが監督はぼくと同じ1990年生まれだそうだ。熱い抱擁がしたい。

そういうわけで今回は、映画『四月の永い夢』と、その映画によって引き出された朝倉あきという女優の魅了について書こう。

いま第一線で活躍している若手女優、例えば広瀬すず吉岡里帆etc…、そんな彼女たちと十分に肩を並べるだけの力量と魅了が朝倉あきにはあるとぼくは信じているし、この映画を観たことで、それはさらに確信を得た。

 

 

朝倉あきという女優について

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1991年生まれのその女優は、TVドラマ『とめはねっ!鈴里高校書道部』で主演を張り、NHK朝の連続ドラマ小説に出演するなど、ハタから見れば順風満帆な俳優人生を送ってきた。先日亡くなった高畑勲監督の遺作『かぐや姫の物語』では主演・かぐや姫の声を担当し、その耳障りのいい澄んだ声、それでいて力強い発声を観客に見せつけた。

その後、芸能活動を休止。もう朝倉あきを見ることができないのか…と絶望しかけていたところ、所属事務所を変えて2015年にひょいと復帰。元の所属元が東宝芸能という超大手であったのに対し、復帰元はコニイという所属俳優がふたりだけの小さな事務所だった。ホームページを確認したところ、もうひとりの俳優が契約満了しているようで、今は朝倉あきしか所属していないのかもしれない。詳しいことはわからない。

活動休止と復帰。東宝芸能とコニイ。そこにどんな事情があったかなんて、ぼくたちには知り得ないことだが、多くの人にとってそれが「待望の復帰」であることには違いない。ふたたび朝倉あきを見ることができる。それはすなわち、ハピネスである。

 

 

生活の営み

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ぼくがこの映画を退屈せずに観ることができたのは、生活を営む朝倉あきの姿に90分のあいだ見惚れ続けたからだ。

汗ばんだ姿で目覚める朝倉あき。自転車を漕ぐ朝倉あき蕎麦屋で接客する朝倉あき。喫茶店でバイト情報誌を眺める朝倉あき。夜道を闊歩する朝倉あき。プラットホームで電車の遅延を聴く朝倉あき

どのカットの佇まいも尊く、それでいて「タレントらしさ」「美人のキラキラした感じ」がいい意味で抜けている。衣装のチョイスもよかったように思う。

 

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雰囲気としては、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』の花ちゃん(CV・宮崎あおい)に近い気がした。恋人に先立たれたという共通点もあるが、それよりもやはり生き方である。育ちのよさが振る舞いに滲み出ていて、国公立大学卒で頭のよさそうな雰囲気、慎ましくも丁寧に生きる姿。

そうだよな、朝倉あきって生活の中の仕草や反応が最高なんだよな……!と噛み締めながら、それを大量に拝むことかできたことが嬉しくてついニヤニヤしてしまった。正直、朝倉あきでなければ成立しなかった映画ではなかろうか。

 

 

朝倉あきの声に関しては、何かを書き連ねるよりも聴いてもらったほうが早いだろう。映画冒頭の数分がYouTubeで公開されているので是非観てほしい。この声とこの映像にグッとくる人は、たぶん90分間を愉しめるはずである。朝倉あきの見せ方を超わかってる。最高。

 

 

フード理論

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細かな描写に関して、不満がないわけではない。特にご飯だ。

朝倉あきの食べる食パン(最初なに食べてるのかわからなかった)や蕎麦屋の蕎麦(料理の画ありましたっけ?店主が作ってる画はあったけど手元はまったく映らなかった)をほとんど描写せず、それでいて屋上で食べる焼肉は映す。(なぜだ。)最後のタマゴサンドも出てこない。(これはどっちでもいいけど)むしろあえてそうしているのか?とすら思った。つまり、朝倉あきがあまり現実世界を生きている印象を強め過ぎないために食べ物を摂取しない説。であればしかし、なぜ蕎麦屋でバイトしているのか。

 

 

それは台詞か文章か

監督は詩人だそうだ。それが先ほどの映画冒頭のモノローグのようにプラスとなる面がある一方で、マイナスとなる面もある。亡くなった恋人の実家で彼の母親が説く言葉は、言い回しが台詞ではなく完全に文章なのだ。

完璧に覚えているわけではないが、こんな言い回しである。

「あなたはまだ若いから、人生とは何かを獲得していくことだと思っているかもしれないし、私にとってもある時期まではそう見えていたけど、人生は失い続けることだとこの歳になって思うようになったわ」「失い続ける中で、その度に自分を発見していくしかないんじゃないかしら」

全編を通してここだけがこの調子なのだから、たぶんみんな違和感を覚えたんじゃないかと思う。 

ちなみにこのシーンで朝倉あきは彼の母親にひとつの秘密を打ち明けるのだが、それはこれまで誰にも言ってこなかった秘密であり、さらに観客にも知らされていなかった秘密であった。かつての教え子であるカエデや大学時代の友達にも曖昧な返答しかしない性格であることを観客も知っていたからこそ、そこの告白には大きな意味を持ち、非常によいシーンだった。

 

 

恋に似たエモーション

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花火大会の帰り道、工場で働く青年との別れ際で、独特でありながらうれしい言葉をかけられる。別れたあと、朝倉あきはイヤフォンを耳に差し、音楽を聴く。赤い靴の『書を持ち僕は旅に出る』である。

小躍りしながら闊歩する姿で、恋に似たエモーションを表現する。しかしあくまでも、街中で出せる現実的な範囲の中で最大限の表現である。そしてそういうのが死ぬほど似合うのが朝倉あきである。

 

 

四月の永い夢

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冒頭に書いたように、この映画が世間でどのように評価されているのか、ぼくは知らない。 そもそも、この規模の映画はどれくらい動員すればヒットと言えるのかもわからない。だけど確かにここに朝倉あきの価値がはっきりと映っていたし、映画の予告から期待した通りの佇まいがそこにはあった。

朝倉あきが復帰してくれてぼくはとても嬉しいし、世間にもっと発見されてほしい気持ちでいっぱいである。(漫画『A子さんの恋人』を実写化する際はA子さん役に朝倉あきを!)

ひとりのファンとして、よい映画に巡り会い続けてほしいと願うし、『四月の永い夢』は確かにそのひとつであったと思う。

 

<了>

映画「四月の永い夢」オリジナル・サウンドトラック

映画「四月の永い夢」オリジナル・サウンドトラック

 
朝倉あきファースト写真集『朝顔』

朝倉あきファースト写真集『朝顔』

 

春の空気に虹をかける夜に -小沢健二@武道館

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晩春。武道館である。山田守氏の建築を見たいと思いながらも、実際にそこへ出向く機会がこれまでなかったので、いいタイミングだなと思って5月3日のチケットをポチった。小沢健二のタイミングで初・武道館。

これはライブを終えたあとに感じたことだけど、そもそもぼくはアーティストのライブに出向くほうではないので「もしかしたらこれが最後の武道館かもしれないな」という気がした。初武道館であり、ラスト武道館である(かもしれない)。今回の記事に関してはあまり感傷的に書くつもりはなくて、できるだけ淡々と書きたいのだけど、まぁ一応そういう個人的な事情もふまえて。

 

* * *

 

小沢健二のライブに出向くのは、2016年「魔法的」以来の2度目だ。

同じアーティストのライブに複数回出向いたことはこれまでなかった。小沢健二が初である。そのことからも、ぼくにとっての「魔法的」がいかに素敵な体験だったかを想像してほしいのだけど、その上で「春の空気に虹をかけ」は期待を超えてきたのだから、ほんと笑っちゃいますよね。

 

* * *

 

いろんなメディアで報じられていたように、36人編成のなかには女優・満島ひかりも交じっていて、おおかたの楽曲において小沢健二満島ひかりツインボーカルのような形式となっていた。

満島ひかりは遠目から見てもチャーミングで、動作に不要な動きがない。皆さんは知っているだろうか、美しい人は遠くからでも美しいのだ。これが時代を象徴する女優の佇まいか…!!!とたいへん興奮した。それでいて歌声は力強く、やだもうほんま最高やないの!とたいへん興奮した。

満島ひかりがいて本当によかった」とほとんどのファンは感じただろうけど、本人は「客席なら生卵が投げられるかもしれない」なんて思っていたくらい不安だったようで。

ユートピアであるのは絶対よくない」と自身で言っていたように、“小沢健二”はサンクチュアリな存在になり過ぎているのかもしれないと今更気づいた。(実際にそうであるかは別として、そう思われがちな存在になってしまっている、と言ったほうが正しいかも)

だからこそ満島ひかりがいてよかったと思ったし、Apple Musicのときも、Mステのときも、武道館でもそう思った。

 

* * *

 

アルペジオ(きっと魔法のトンネルの中)』に出てくる“友”は、基本的には岡崎京子のことを指すわけだけど、それ以外にも「小沢健二をずっと見てきた人たち」のことでもあるんだなとライブを体感していて気づいた。とにかく力強く歌い上げる小沢健二と、それに応えるようにレスポンスをおくる観客席。幸福な友人関係。たぶんユートピア

でもライブ終盤のMC、満島ひかりとのやりとりの中で、小沢健二はこんな言葉を残した。

満島ひかり「私はオザケン世代じゃないので…」

小沢健二「ぼくは世代というのは完全に広告が作ったものだと思ってるので。オザケン世代なんて信じません。フクロウが響いた人はぼくのオーディエンス!」

90年代の活躍を見てきた人たちこそが“友”であり、活躍していない時期から小沢健二を愛し始めたぼくたちの“世代”はまだまだ“友”じゃない。そんなふうに感じてしまったことを、いやいやそれは間違ってるよと教えてくれたみたいだった。

 

オザケン世代」「ユートピア」「サンクチュアリな存在としての小沢健二」。それらはすべて同じ事象を指している。90年代に生み出してしまった自身の虚像を殺す作業が、たぶんこれから加速する気がする。そう思うと、楽しみしかなくないですか。過去の栄光にすがりつくんじゃなくて、また新しいミッション、新しい音楽を鳴らそうとしていること、そういう姿勢や言葉を表してくれるだけで、あぁこの人のこと好きになってよかったなと本気で思う。

 

* * *

 

ライブの最後、小沢健二は「生活に帰ろう」と告げて灯を落とす。

その言葉は、非日常(ライブ)から日常へ返すための呪文のようなもので、バルスみたいなものだ。でもラピュタみたいに宇宙の果てへと小沢健二が行ってしまうわけではなくて。日常のなかにも小沢健二はいて、それをふまえた上で昨夜のような非日常は成り立つ。非日常な瞬間のために日々生活しているわけではないし、生活のために非日常があるわけでもない。

非日常の魔法を解くように「生活に帰ろう」を合図するけど、日常にも魔法はかけられている。

日常と非日常、どちらにも彼の音楽は等しく流れている。武道館にいた小沢健二も、ヘッドフォンの中にいる小沢健二も、ぼくはどちらも等しく好きだ。

<了>

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

 

<過去記事>

※トップ画(https://e-talentbank.co.jp/news/56710/)より引用