晩春。武道館である。山田守氏の建築を見たいと思いながらも、実際にそこへ出向く機会がこれまでなかったので、いいタイミングだなと思って5月3日のチケットをポチった。小沢健二のタイミングで初・武道館。
これはライブを終えたあとに感じたことだけど、そもそもぼくはアーティストのライブに出向くほうではないので「もしかしたらこれが最後の武道館かもしれないな」という気がした。初武道館であり、ラスト武道館である(かもしれない)。今回の記事に関してはあまり感傷的に書くつもりはなくて、できるだけ淡々と書きたいのだけど、まぁ一応そういう個人的な事情もふまえて。
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小沢健二のライブに出向くのは、2016年「魔法的」以来の2度目だ。
同じアーティストのライブに複数回出向いたことはこれまでなかった。小沢健二が初である。そのことからも、ぼくにとっての「魔法的」がいかに素敵な体験だったかを想像してほしいのだけど、その上で「春の空気に虹をかけ」は期待を超えてきたのだから、ほんと笑っちゃいますよね。
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いろんなメディアで報じられていたように、36人編成のなかには女優・満島ひかりも交じっていて、おおかたの楽曲において小沢健二と満島ひかりのツインボーカルのような形式となっていた。
満島ひかりは遠目から見てもチャーミングで、動作に不要な動きがない。皆さんは知っているだろうか、美しい人は遠くからでも美しいのだ。これが時代を象徴する女優の佇まいか…!!!とたいへん興奮した。それでいて歌声は力強く、やだもうほんま最高やないの!とたいへん興奮した。
「満島ひかりがいて本当によかった」とほとんどのファンは感じただろうけど、本人は「客席なら生卵が投げられるかもしれない」なんて思っていたくらい不安だったようで。
「ユートピアであるのは絶対よくない」と自身で言っていたように、“小沢健二”はサンクチュアリな存在になり過ぎているのかもしれないと今更気づいた。(実際にそうであるかは別として、そう思われがちな存在になってしまっている、と言ったほうが正しいかも)
だからこそ満島ひかりがいてよかったと思ったし、Apple Musicのときも、Mステのときも、武道館でもそう思った。
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『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの中)』に出てくる“友”は、基本的には岡崎京子のことを指すわけだけど、それ以外にも「小沢健二をずっと見てきた人たち」のことでもあるんだなとライブを体感していて気づいた。とにかく力強く歌い上げる小沢健二と、それに応えるようにレスポンスをおくる観客席。幸福な友人関係。たぶんユートピア。
でもライブ終盤のMC、満島ひかりとのやりとりの中で、小沢健二はこんな言葉を残した。
小沢健二「ぼくは世代というのは完全に広告が作ったものだと思ってるので。オザケン世代なんて信じません。フクロウが響いた人はぼくのオーディエンス!」
90年代の活躍を見てきた人たちこそが“友”であり、活躍していない時期から小沢健二を愛し始めたぼくたちの“世代”はまだまだ“友”じゃない。そんなふうに感じてしまったことを、いやいやそれは間違ってるよと教えてくれたみたいだった。
「オザケン世代」「ユートピア」「サンクチュアリな存在としての小沢健二」。それらはすべて同じ事象を指している。90年代に生み出してしまった自身の虚像を殺す作業が、たぶんこれから加速する気がする。そう思うと、楽しみしかなくないですか。過去の栄光にすがりつくんじゃなくて、また新しいミッション、新しい音楽を鳴らそうとしていること、そういう姿勢や言葉を表してくれるだけで、あぁこの人のこと好きになってよかったなと本気で思う。
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ライブの最後、小沢健二は「生活に帰ろう」と告げて灯を落とす。
その言葉は、非日常(ライブ)から日常へ返すための呪文のようなもので、バルスみたいなものだ。でもラピュタみたいに宇宙の果てへと小沢健二が行ってしまうわけではなくて。日常のなかにも小沢健二はいて、それをふまえた上で昨夜のような非日常は成り立つ。非日常な瞬間のために日々生活しているわけではないし、生活のために非日常があるわけでもない。
非日常の魔法を解くように「生活に帰ろう」を合図するけど、日常にも魔法はかけられている。
日常と非日常、どちらにも彼の音楽は等しく流れている。武道館にいた小沢健二も、ヘッドフォンの中にいる小沢健二も、ぼくはどちらも等しく好きだ。
<了>
- アーティスト: 小沢健二とSEKAI NO OWARI
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<過去記事>
※トップ画(https://e-talentbank.co.jp/news/56710/)より引用