無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

『おおかみこどもの雨と雪』考察と感想

 

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細田守監督の新作『おおかみこどもの雨と雪』を観てきました。

ほとんどの映画館で上映は既に終了していて、僕の住む大阪で唯一上映していたのは、下町商店街の中にある小さな映画館だけでした。

 

 

この映画の主役は誰なのか

おおかみこどもってどんな映画ですか?と訊かれたら、僕はたぶん「2人のおおかみこどもがそれぞれの進路を自分の意志で決めるお話」と答える。

宮崎あおい演じる花は、確かにこの映画の主人公ではあるけれど、映画の主役は親じゃなくて子どもなんだと僕は思う。しかしそれはきっと僕が子どもだからだ。 

おそらく、観る人の年齢や性別によって、どこに重点を置くかは異なる映画になる。

おおかみこどもの雨と雪』の尺は140分。雨と雪が小学生になるのはちょうど映画の半分を過ぎた頃。つまり、映画の前半の主人公は花で、後半の主人公が雨と雪という構図になっている。親と子、どちらを映画全体の主人公として据えて観るかによって、映画の楽しみ方が変わり、そして評価が割れる。

 

 

恋する少女としての名前 花

登場人物の名前は、それぞれ生まれた日に由来する。

雪の日に生まれたから「雪ちゃん」

雨の日に生まれたから「雨くん」

象徴的なのはこの2人の名前ですが、僕が面白いと思ったのは母親・花の名前の由来です。

花の名前の由来は、生まれたとき裏庭に花が咲いていたから。

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そのとき咲いていた花はコスモス。

花言葉は「乙女のまごころ」です。

声優を務めた宮崎あおいにも言えることだけど、花は成人しても尚、どこか少女っぽさや乙女っぽさが残る女性ですよね。花という名前が似合っていた。

しかし、旦那さんである狼男さんが死んでしまい、1人でこどもを育てなければいけない状況になって以降、花が人から「花ちゃん」と呼ばれる機会はぐんと減ります。

それはつまり「花」という名前が象徴するような「少女性」を失い、 「恋する少女」から「母親」へと変化していった証なのだと僕は思うのです。

 

余談だけど、芥川賞作家の金原ひとみも「少女が母親になることで名前を喪失する」という小説を描いています。短篇集『TRIP TRAP』です。物語の前半は主人公“マユ”の名前が何度も出てくるし、年上の男性から「いい名前だね」なんて褒められるシーンもあるのですが、物語が後半は徐々に名前で呼ばれる頻度が少なくなり、娘が産まれると“マユ”という文字は小説の中に一度も出てこなくなります。

僕は男だし未婚なので、母親になるという感覚がよく分からないのですが、子どもが産まれると名前(少女性)を失うものなのでしょうか。誰か教えてください。自分の母親にそんな気持ち悪い質問できません。

 

 

生死の狭間には水がある

死を想像させるモチーフとして「水」が出てくる。

父である狼が死んだ下水路、雨が溺れ死にかけた川、花が山で意識を失ったのも大雨による山道の崩れが原因でしたね。

 

2人の子どもの名前の由来である「雨」も「雪」も、言ってしまえば「水」である。

これは僕のこじつけになってしまうかもしれないけど、雨と雪はそれぞれ人間と狼の通過儀礼を受けていくことで、選ばなかったほうの人生(雪にとっての狼人生、雨にとっての人間人生)を殺していくとも考えられるのではないでしょうか。

雨と雪は「人間」と「狼」の間をゆらゆら揺らぐ。それは片方の選択できたはずの人生を殺すという意味で、生死の揺らぎに似た境界線の上に立っているとも言えるんじゃないかと思いました。

 

 

右側がおおかみ、左側が人間という法則

おおかみと人間の混血である雨と雪は、成長しそれぞれの道(人生)を選びます。

この2つの道は映像の中でも示されていて、常に映像の中で右側が「おおかみとしての人生」、左側が「人間としての人生」として示されています。

 

病院

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右が動物病院(おおかみの病院)

左が小児科(人間の病院)

 

家の前の道

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右がおおかみの道(学校を嫌がり山の方向を向く雨)

左が人間の道(学校へ向かう雪)

 

他にも、橋で対面する際に橋の右側に狼男、左側に花などなど。

 

しかし唯一この法則が逆さまになっているシーンがあって、それは学校の階段を下りる雪と草平。

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  ↓

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雪が左側の階段から下ってきて、草平が右の階段から追いかけてきます。

雨と雪を対比させた場合は、雨がおおかみ側、雪が人間側になります。しかし雪と草平を対比させた場合、雪がおおかみ側と通らなければいけない。

普通に考えれば、草平は雪を追いかけてるんだから同じほうの階段を通るのが自然だ。だけどあえて二手に分かれてるってことは、何かしらの意味/意図があるってことですよね。

 

さて、これをどう解釈しましょうか。

僕は未だに答えは出ていません。

とりあえず金曜ロードショーで観ながら考えます。何かしらの答えが出たらTwitterで書こうかなぁと思っています。

 

一つ、手掛かりになりそうなものがある。

階段の踊り場には、世界を反転させるものが存在する。

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※【追記】これ、大学での花ちゃんと狼男さんの構図と対応してるみたいです。気づかなかった!

 

 

母親の機会損失

僕はブログ記事の最初に、この映画は「2人のおおかみこどもがそれぞれの進路を自分の意志で決めるお話」と書きましたが、一方で「花という女性が恋をして子どもを産み、子育てをするために自分の人生を諦め、子供たちの為の人生を最優先にする」という映画でもあります。

 

僕の好きな是枝裕和監督の代表作『誰も知らない』という映画は、YOU演じる福島けい子という女性が恋をして子どもを産むが、それでも自分を人生(主に恋愛)を最優先とし、子育てを放棄する映画だった。「私は幸せなっちゃいけないわけ?」という言葉を吐いて子供たちの前から姿を消すのだ。

 

花ちゃんと福島けい子、この2人を比べたとき、幸せなのはどちらなのだろうと考えてしまう。

もちろん花は正しく、そして幸せだったと思う。

YOUのしたことは明らかに過ちで、後に逮捕されるが、彼女は自分の好きなことをする選択をした(避妊あるいは中絶をすれば法を犯さずに自分の人生を謳歌する道を選ぶことも可能だった)。

 

花ちゃんの心の中に「本当は選びたかったけど仕方なく放棄するしかなかった人生」があったように、きっと僕の母親にもあなたの母親にも、子どもを産んだことによって諦めざるを得なかった人生があったのかもしれない。

「選んだ道ははたして本当に正解だったのか」という後悔に似た疑問が花の中に生まれてしまうかもしれない。母親のその難問に対して、明確な回答を導き出せるのは、きっとその子ども達だけである。

  

<了>