文学界に流入する才能たち
芥川賞を受賞したお笑い芸人・又吉直樹をはじめ、山周賞候補になった押切もえ、伊藤計劃のトリビュートに参加したぼくのりりっくのぼうよみ、文芸誌「文學界」にエッセイを寄稿したSEKAI NO OWARI・Saoriなど、他ジャンルの第一線で活躍する才能たちが、文学の世界に流入してきています。*1
その作品の完成度や評価にバラつきはあるものの、すでに名前が売れているタレントであるという状況に甘えている人は(今のところ)見受けられなくて、とても良い傾向だなぁと、いち文学ファンとして嬉しく思っている今日この頃。
そんな「タレント兼作家」たちの中でも、格別と言っていいほど文章表現に長けた作家がいます。
AV女優・紗倉まなをご存知でしょうか。
AV女優としてトップクラスの人気と知名度を誇る24歳。
高専卒の高い偏差値の持ち主であることは業界では有名で、文学っ娘であることもファンのあいだで広く知られています。
かねてから文章力には定評があり、TOYOTAの車情報サイトや雑誌「プレイボーイ」をはじめとする数々の媒体でコラム連載を持つなど、AV以外のフィールドでも才能を発揮するナイスなガールです。
そんな彼女が昨年の春、小説処女作『最低。』をリリース。
AV業界を生きる女性たちを描いた本書は、処女作でありながら、雑誌「ダ・ヴィンチ」の年間ランキング「BOOK OF THE YEAR 2016」で第31位を獲得。
タレント本の域に収まらない“純文学作品”として高い評価を受けました。
又吉直樹と紗倉まな 業界から遠く離れて
又吉直樹が処女作『火花』の主人公をお笑い芸人の男性に設定したように、紗倉まなの処女作『最低。』もまたAV女優としてその業界を生きる女性を主人公に設定しました。
「タレントが書いた小説」というだけで正当に評価されず色眼鏡で見られてしまうことが多いのだから、自分が属する特殊な業界の話ではなく、もっと遠く離れた世界、あるいはもっと普遍的なものを描いてほしいなぁと僕はなんとなぁく思ったりするのですがーー今回、それがきました。
第2作目はいよいよAVから離れた世界を描く。
ちなみに又吉直樹が今月発表した第2作目も、お笑いから離れた世界を描いています。
真価が問われる第2作目『凹凸』。
前作のレビュー同様、批評や考察ではなく、あくまで自分の感想を書いていこうと思います。僕の中で紗倉まなが贔屓の作家であることは間違いないのですが、微妙だと思ったところは微妙だと書いてしまおうと思います。
内容紹介 - Amazon
小説デビュー作『最低。』の映画化が決定した紗倉まなによる初の長編小説!
結婚13年目で待望の第一子・栞が生まれた日から、その夫婦は男女の関係を断った。
やがて夫の正幸と決別することを選んだ絹子は、栞を守るため母親としての自分を頑ななまでに貫こうとする。
しかし、絹子のもとを離れ24歳になった栞は、〈あの日〉の出来事に縛られ続け、
恋人の智嗣と実の父親である正幸を重ね合わせている自分に気が付いてしまう。
家族であり、女同士でもある、母と娘。
小説デビュー作『最低。』で若い女性から圧倒的な支持を集めた著者が、
実体験を基につづった、母子二代にわたる性と愛の物語。
『凹凸』の感想⑴ 彷徨少女
前作『最低。』が連続短編集であったのに対して、今作『凹凸』は初の長編小説になっている。とはいえ、5つの章に区分けられていることや「わたし」という語り手が入れ替わるスタイルは、前作『最低。』と通じるところがあって、前作が気に入った人は今作も読みやすい。
作品全体の空気感も似ている。
おとなになることと母親になることの、どちらもがいまのわたしにとってはきっと大切であり、それでもこれといった将来や、着実に未来を切り開いていける希望などというのは、どこを探しても自分の中にはなく、年が若いという理由だけで投げかけられる「まだまだこれからよ」という言葉の矢は、次第に肉付きを増して大きな石となり、わたしを粉々になるまで押しつぶすのだった。
P.55
「家族」というものに苦悩し、全体的にどこか暗い影を落とす作風は、相変わらず「AV女優としての紗倉まなのことが好きなファン」を喜ばせる内容では決してなくて、むしろ目を覆いたくなるような心理描写が目立ち、あぁほんとにこの人は書きたいことがあって小説を書いてるんだなぁと、僕は読みながら改めて思った。
誰かに読ませるためではなくて、自分のために書いているという印象を受けた。もちろん、商品として人が読むことは意識しているだろうけど、描きたい根本的なところは自分のための作業であるような気がするのだ。
物語は「栞」とその母親である「絹子」を中心に進んでいく。煽り文には<二代にわたる性と愛の物語>とある。
絹子と栞の親子は、おそらく前作『最低。』の後半に登場した親子(元AV女優の母孝子とその娘あやこ)が前身なんじゃないかと思う。特に娘のほう、栞は前作のあやこを引き継いだ人物であるような気がする。欠落した父性を求めて少女が彷徨する、あの感じ。あの切実さは、一体なんなんだろう。
たぶん、たぶんだけど、「シングルマザーの母親とその娘」、そして「父性の不在」は、これから先の小説家・紗倉まなが何度も描いていくモチーフなんじゃないかと思う。例えばデッサン画のように、存在するのかも分からない“正解”の線を求めて、何度も似たような(でもどこか違う形の)曲線を描き重ねていく。紗倉まなが作家としてこだわり続ける曲線のうちの一本が、この線であるような気がしてならない。
『凹凸』感想⑵ 小説技巧
文章は相変わらずうまい。本当にうまい。
なんというか、小説技法的な意味での巧さは、前作『最低。』と比べものにならないくらいうまい。
その日にどんな朝を迎えていたのか、前後にどんな出来事があったのかというのを、わたしはうっすらとしか覚えていない。しとしとと雨の降る日だっただろうか、その時どんなニュースが流れ、世間が何に夢中になっていたのか、鮮やかにひとつひとつ丁寧に掘り起こして奥行きをつけていきたいところですが、思い出すたびに記憶が形を変えるものだからとても難しい。
P.4
そういえば前作の読点の打ち方はしなくなったんですね。(好きじゃ、ない。ってやつ)あれ、個人的にはあまり好みではなかったので、今作がより読みやすく感じたのはそのせいでもあるかも。
「育ちの悪さ」を表現する家族のエピソードもとても象徴的で良い。家族総出で銀座の街を走り抜けるなんて最高じゃないか。
逆に、冒頭で登場した生物愛者の先生は、短い文章で完璧にキャラが立っただけに、それっきりの登場であったことがちょっと肩透かしだった。めっちゃうまく描写されてしまったからこそ、もっと振り下げていくんじゃないかと思ってしまった。意外とちょい役だった。。。
視点と人称⑴ 入れ替わる「わたし」
前作『最低。』が主に三人称小説であったのに対して、今作『凹凸』は一人称「わたし」で物語が描かれている。
さっき、小説を紹介する文の中で「「わたし」という語り手が入れ替わる」と書いたけど、それはつまり「わたしは〜」と語っている人物が、ある章では栞であったり、別の章では絹子であったりするのだ。
そして、誰が「わたし」として喋っているかによって、その人物が言う「あなた」が誰を指すのかも変わってくる。基本的に「あなた」という言葉が差している人物は、栞の父親であるか、栞の恋人の智嗣であるかなのだが、これが微妙に分かりにくい。
私がどんな時にあなたのことを思い出すのかと言えば、胃を酒でぱんぱんに満たした時なのだった。
P.38
いや、わかる、わかるんですよ少し読み進めれば。幼少の栞が出てきたってことは、語り手の「わたし」は母親である絹子だな、という感じで。
これは単純に僕自身が物語を読み込んでいく能力が低いだけなのかもしれないけど、今作のように語り手も時間も入れ替わる物語だと、どのエピソードがいつの誰のエピソードだったのか分からなくなったりする。実際、僕は結構ごちゃついてしまった。
突然だけど、スタジオジブリの話をする。宮崎駿の映画が大人も子どももすんなりと受け入れられる要因の一つは、彼の物語の時計が常にまっすぐ進むシンプルさだ。過去のシーンに戻ったり、唐突に未来へ飛んだり、時間を往来することがほとんどない。時間がシンプルに未来へ向かって進むのみ。なぜそれが観やすいのかというと、物事の時系列を考える必要がないのだ。現在地は常に“今”なのだ。*2
ではその、『凹凸』における「わたし」と「あなた」の使い方が失敗だったというと、そうではない。
裏表紙のあらすじにもあるように、栞は恋人の智嗣に父親の姿を重ねていく。読者も同じように、「あなた」という二人称のフィルターを通して智嗣と栞の父親の姿が重なってゆく。人称を用いて登場人物の二人をダブらせるなんて、これはたぶん小説にしかできないことだ。意図された仕掛けなのだろう。紗倉まな、恐ろしい子。。。
視点と人称⑵ 二人称小説
紗倉まなが小説を書く上で、「人称」が持つ効果を意識しながらそれを使用していることは、前作『最低。』からも垣間見えていたことだけど、『凹凸』の最終章はもっと面白いことになっている。
最終章の語り手は、栞でなければ、母の絹子でもない。誰だかよく分からない語り手によって、栞と智嗣の生活が描写される。栞と智嗣しか知り得ないようなことを、なぜか語り手は語ることができている。その場で見ているかのように。
<君>はふと、あの日の丸窓から眺めたしだれ花火を思い出して栞に提案する。ねえ夕飯何にする、くらいの気軽さで。
P.146
そんな匿名性の高い語り手によって、栞は名前「栞」で呼ばれ、智嗣は「君」と呼ばれる。最終章は主にその「君」に向かって語りかけられる。つまり、一人称小説でもなければ三人称小説でもない、二人称小説のような特殊な形式を取っている。
そして、二人称小説の代名詞的な古典作品であるミシェル・ビュトールの『心変わり』がそうであるように、『凹凸』の最終章においても、語り手の存在が徐々に明るみになってゆく。(が、ここでその正体を書き記してしまうのは御法度だろう。読む楽しみも奪ってしまうし。)
その語り手の存在は、栞と智嗣の物語をラストシーンへと導いてゆき、小説をここしかないという完璧な地点に着地させる。
なるほどだから二人称なのか、だからこんなあり得ない視点が可能なのかと、腑に落ちるのだ。
二人称小説という描き方、栞と智嗣しか知り得ないことを語り手が見ているかのように描写するという視点、そして美しい着地を見せるラストシーン。この最終章を読んで、まだ話題性だけのタレント本だと思う読者がいるのだとしたら、それはとても残念に思う。
三島由紀夫賞
「セクシー女優が書いた小説、芥川賞か直木賞を取りそうな件wwwwww」という2chまとめ記事が、僕のTwitterタイムラインに流れてきた。セクシー女優というのはもちろん紗倉まなのことだ。
きっと『凹凸』はどちらの賞も受賞することはないだろう。
芥川賞は文芸誌(週刊少年ジャンプとかマガジンとかの小説版みたいなもん)もしくは新聞に掲載された作品のみが対象であり、『凹凸』は書き下ろし作品、つまりいきなり単行本として発表された作品であるので選考対象外である。
また、直木賞は大衆文学を選考対象としているため、純文学に属する『凹凸』とはジャンルが異なり、候補にもならない。*3
なので残念ながら、どちらの賞も受賞することはない。
しかし一つだけ。受賞するかはともかくとして、候補に上がってもおかしくないんじゃないかと僕が勝手に思っている文学賞がある。
三島由紀夫賞だ。
三島賞の選考対象は、小説、評論、詩歌、戯曲の「文学の前途を拓く新鋭の作品一篇に授与する」としている。芥川賞とは違って、文芸誌に載っていなくてもいい。
というか、三島賞の選考対象って小説だけじゃないんですね。レンジがとても広い。
ということは、ん? 紗倉まなが小説ではなくAV作品で候補に上がる可能性がないこともないんじゃないか。つまり、『紗倉まな まなちゃんはTバック派 可愛いルックスからは想像できないドすけべ下着で挑発、誘惑、発情』が三島賞を受賞する可能性も、ないこともない。夢が膨らむ。最高だ。
でも、まぁ、できれば、『凹凸』で受賞、もしくは候補になって欲しいので、僕はそっちを純粋に推していきたいと思う。
タレントが書いた小説だから評価がされないなんてことがないように、タレントが書いた小説だから下駄を履くなんてこともないように。
<了>