無印都市の子ども

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キャラメルウォールナッツをふたつ注文できない - 文月悠光『臆病な詩人、街へ出る。』

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このあいだ、ちょっとした用事のあとに友人とクリスピークリームドーナツに寄った。ぼくはキャラメルウォールナッツが好きで、ほんとはそれをふたつ食べたいのだけど、同じものをふたつ注文するのはすこし気恥ずかしい。複数個のドーナツを注文するのなら、系統の異なるドーナツを選べよ(チョコ系とクリーム系といった感じで)という暗黙の了解が、どこからともなく伝わってくるのだ。結局、ぼくはキャラメルウォールナッツと、もうひとつはオリジナルグレーズドを注文した。(ふわっとした食感と甘いシュガーコーティングがおいしかったのだけど、とりあえずそれは置いておいて。)

そんなとき、ぼくは思う。もしもぼくに“ほとばるほどの才能”があれば、キャラメルウォールナッツをふたつ注文することができたんだろうなと。(でも実はそれも間違っていた、というのが今回の話です。)

 

才能さえあれば、多少エキセントリックな言動をとっても許される気がしていた。たとえば『情熱大陸』などでよく観る“偏食”。毎朝カレーを食べるナ・リーグ首位打者や、チョコレートしか食べない社会学者、レトルトカレーの袋にストロー差し込んで飲む科学者。

ぼくにも『情熱大陸』に出演できるような才能があれば、キャラメルウォールナッツをふたつみっつよっつ注文しても「あー好きなんすよねー笑」で通るのだ。やっぱり才能あるやつはちょっと違うな、となるはずだ。才能があれば、その副作用として、いろんなことが社会から許される。レトルトカレーの袋にストロー差し込んで飲んでも許される。もしもぼくが昼休みにそれをすれば、職場の女性陣に「潮見さんがレトルトカレーそのまま食べてた、というか飲んでた」「気持ち悪い」「社会性ないとは思ってたけどここまでとは」「普通にひく」と悪い噂になるだろう。

ああ、才能があれば、才能があれば。

 

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

 

 『臆病な詩人、街へ出る』の著者・文月悠光は、史上最年少で中原中也賞を受賞した新進気鋭の詩人で、紛れもなく“ほとばしるほどの才能”の持ち主だ。それでなくとも「詩人」という肩書きは、大胆な偏食が許される程度には社会から逸脱した(ように思われがちな)職業だろう。

そう思っていたのだが、どうやらそんなこともないらしい。

TSUTAYAと私と「永遠」>という章に、彼女が十代の頃にコンプレックスを植え付けられたというエピソードがある。

「自分はジャズや洋楽をよく聴くのですが、文月さんはどんな音楽が好きですか?」

 私は深く考えずに、スピッツくるりaiko相対性理論と、ラジオ番組で知ったJ-POPアーティストの名前を挙げた。

「へえ、詩人のくせに案外普通なんですね」

(中略)

 「詩人のくせに普通」というコンプレックスが植えつけられたのは、そのときのことだった。

 

詩人ではないぼくは、こういう類の悩みを持ったことがない。(書店員なのに東野圭吾をすすめるのはどうなんだろうと考えることはあるかもしれないが、人にそう言われることがないのは、書店員という職業に対して誰も特別な見かたをしてないからだ)

詩人だったら逸脱してOKやろ?という考え方は、詩人って逸脱してるもんやろ?という謎理論へと簡単にひるがえる。よく知らない職業や人種に対して、よく知らないくせに、いやよく知らないからこそ、一方的なイメージで勝手に期待して、勝手に「裏切られた」なんて顔をしてしまう。

 詩人のくせに普通? 詩人だから奇特? お好きにどうぞ、と思う。みんな自分の「普通」を振りかざしたいだけではないか。

どちらかといえばあらゆることに消極的で、社会的な経験値も乏しいぼくは、それらのエピソードを読みながら「生きづらさ」に共感し、そしていままでの勘違いに気づく。

仮にぼくに何かしらの才能があったとしても、きっと今のぼくと同じように(あるいはこれまでの文月悠光と同じように)他人にどう思われるか?などに囚われがちになって、あらゆることに臆病なままなのだろう。

ナ・リーグ首位打者になろうと、アートとテクノロジーを駆使した魔法使いのようなサイエンティストになろうと、永世竜王になろうと、あるいは史上最年少で中原中也賞を受賞して高校生詩人になろうと、きっとぼくはキャラメルウォールナッツをふたつ注文することはできない。そこじゃない、そこじゃなかったんだ。

彼女の抱える「生きづらさ」は、詩人の生きづらさであると同時に、誰もが抱える普遍的な生きづらさでもある。「詩人だから」が理由や根拠にならないことと同じように、「才能がないから」が言い訳にはならない。結局のところ、そういうことだった。

 

* * *

 

エッセイのあとがきで、彼女は「臆病」を克服するのではなく、ときに「臆病」な自分と、ときに「勇敢」な自分のグラデーションを楽しもうと言う。

でも「臆病」という一つの言葉で自分を捉える必要はない。表の顔は強くて完璧に見える人も、場面によっては脆く心配性になる。人は「臆病さ」と「勇敢さ」のグラデーションを持って生きているのだ。

(中略)

臆病さを「克服する」努力から退散したい。「臆病」と「勇敢」のグラデーションを、自分自身で楽しんでみよう。臆病な気質を否定することなく、甘えの材料にもすることなく、心地よい距離感で向き合い続けたい--。

なるほど、と思う。腑に落ちた気がしたのだ。

突然だが、ぼくはアイドルの欅坂46が好きで、彼女らの冠バラエティ番組『欅って、書けない?』を観ている。彼女たちは番組を通して、グループ内での自分の立ち位置や個性を見つけていく。アイドルの消費のされ方として「育てる」や「成長を見守る」といった表現をよく見かけるが、まさにそんな感じだ。成長は「欠点を克服する」というニュアンスで受け止めがちだが、ぼくは欅坂のメンバーが「隠したい欠点や認めたくないコンプレックスを自分の個性として手懐ける瞬間」が見たくて『欅って、書けない?』と鑑賞しているのかもしれないと、そう気づいた。(もちろん、手なずけられるようになることも「成長」である) 

それはまさに臆病と勇敢、理想と現実といったグラデーションを楽しんだ先にこそある光だろう。そのことに気づいたとき、「あ、やっぱり文月さんってアイドルだったんだな…」と、思わずニヤケてしまった。

 

* * *

 

文月悠光の名前をはじめて知ったのは、新聞の片隅で史上最年少中原中也賞受賞の記事を読んだときだった。中原中也賞の存在を知ったのは、川上未映子の受賞がきっかけだった。川上未映子を知ったのは芥川賞を受賞したからで、芥川賞の存在を認知したのは確か綿矢りさの受賞がきっかけだった気がする。

ぼくは本を読み始めた時期がずいぶん遅いのだけど、自然と「読むべき本」ではなく「読みたい本」だけを追ってきたように思う。自分の直感に従って進んでいった先に、詩人・文月悠光はいた。

それはたぶん、ぼくにとって誇れることであるし、文月悠光は自分にとって特別な作家になるということなんだと思う。誰にも奪えない、損なわれることのない「永遠」の。

<了> 

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)