無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

書店員を辞めました(退職エントリを書くつもりだった)

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書店員を辞めました

退職エントリを書くことに小さな憧れがあったので、退職が決まったときから「どんなこと書こうかなぁ」とぼんやりと考えていたのだけど、でもよく考えてみるとネット上から職場に対して言いたいことなんて何ひとつなかった。

しかし、書店員を辞めた現時点で、本や書店について自分が考えていることを書き残していきたい気もするので、今回は「ぼくがかんがえた本といんたーねっと」について書こうと思う。

記事内容を要約すると、<インターネットがもっとコンテンツと出会う場に、そして創作活動をもっとドライブさせる場になってほしい>という話になります。

言いたいことがありすぎて少し散らかった印象になってしまいましたが、自分にしては珍しく熱っぽく書いた記事なので、時間のあるときに読んでくれると嬉しいです。

ちなみに、記事のタイトルを「潮見、書店員辞めるってよ」にしなかったのは、同世代の羨望と嫉妬を一手に引き受けている憎き才能・朝井リョウへの小さな抵抗です。(朝井リョウめ…世界地図の下書きよかったぞ…)

 

 

本当に書店がない

6月、仕事を辞めて少し時間ができたので、西日本をゆるりと一人旅してきた。
九州地方や山陽地方あたりを電車やフェリーを使って、とにかくだらだらと過ごしていた(秋吉台のダンジョン感がすげえ良かった)。

読書好きのほとんどがそうであるように、電車やフェリーに揺られているあいだの時間は読書にあてることができるので、移動はそれほど苦ではない。

自宅から唯一持ってきたレイ・ブラッドベリの『猫のパジャマ』は行きのフェリーの中で読み終えてしまっていたので、それ以降に読む本は現地で調達しようと考えた。
知らない町で本を買って、次の町でそれを売って、また新しい本を買って、また次の町で売って、また買ってーーそんなことを続けていると、ゆく町ゆく町で「本屋はどこにあるかな?」とGoogle Mapで検索をする癖がつくようになる。そして、次のようなことをしみじみと実感する。


地方には本当に書店がない。


直近で言えば心斎橋アセンスの閉店があったように、書店の数が減っていることは大阪で暮らしていても実感することではある。しかし、地方都市のそれは大阪の比ではなかった。比較的大きな駅であるにもかかわらず、駅前に書店は見当たらない。その前後の駅にもない。自動車かバスを使って行ける国道沿いにようやくブックオフTSUTAYAがある、そんな状況がここでは当たり前だった。

そりゃ数字上では知っていたけど、ちゃんと実感したのは初めてだった。
町に本屋がないならAmazonでも使えばいいじゃないか、と思うかもしれないが、ぼくの問題意識は「本を手にいれる場所」ではなく「情報やコンテンツと出会うきっかけの喪失」にある。

 

 

文學界』がコンビニにあるわけない

書店を辞めた今だから言えるのだけど、書店業界や出版業界の人たちが思っている以上に、社会の中で本の存在感は薄い。
何かを調べたいとか学びたいとか思ったときに「本」や「本屋」という発想にならない人は意外と多いのだ。


今でもたまに思い出すツイートがある。数年前にロックバンドSEKAI NO OWARIのメンバーSaoriが文芸誌『文學界』にエッセイを載せた。「ぜひ読んでみてください!」というSaoriの告知ツイートに、普段は文芸誌を手に取らないであろう若い子たちのリプライが数多くぶら下がっていて、その中のひとつにこんなツイートがあった。


「コンビニ5軒まわったけど見つからなかった!」


文芸誌の発行部数は決して多くない。入荷のない書店だってあるくらいだ。ましてやコンビニになんてあるわけがない。

だけど、そのセカオワファンの女の子の発想に「本を本屋で買う」という発想はなかった。もしくは「住んでる町に本屋がなかった」のかもしれない。いずれにせよ、それはその子が悪いのではなくて、ただ彼女の日常生活の中で本が視界に入る場所はコンビニだけだったということなんだと思う。

アーティストや芸能人が小説やエッセイを書くと、普通の作家では届かないような層にアプローチすることができる。内容の質は置いておいて、とりあえずそれはよいことだと思うし、他ジャンルから人が流入してくることは歓迎すべきことだと思う。

新鮮な層にアプローチできたことで、これまで見えていなかった問題が浮かび上がってくることもある。コンビニ5軒、大変だったと思う。

 


情報が届いてない

金スマアメトーークあさイチ。それまで月に数冊しか売れてなかった本が、地上波テレビで紹介されて一気に火がつき、次の重版まで予約を受けつづける、というのはたぶん"書店員あるある"だ。

お客さんの顔を見ただけで「レンチンやせるおかず作りおきでしょ?」「君たちはどう生きるかですよね?」と、こちらから言いたくなるほど、バズるときはとてもバズる。

そういう経験をするたびに「情報が届きさえすれば、本って売れるんじゃん」と思わずにはいられなかった。つまり、本が売れないのは本の内容の問題ではなくて、単純に情報がしかるべきところに届いていないだけなのでは?ということだ。売れる売れない以前の話だ。

 

考えてみると、日常生活の中で本の情報が入ってくるような場所はあまりない。というか本屋に行くことでしか本の情報はなかなか入ってこない。出版社のWebサイトやSNSもあるが、本の情報が流れてくるTLを作っているのは、そもそも読書が好きな人だけだ。

電車の中吊りなど交通広告もあるけど、目がチカチカするような週刊誌の広告の印象が強いし、新潮文庫は相変わらず昭和臭いデザインの広告ばかり吊るしている。

少し前に、読書好きだという男子大学生と話していて「東野圭吾は好きだけど、東野圭吾の新作情報をどこで得たらいいのかわからない」というようなことを言っていたのを思い出した。

たぶんその感覚が普通で、各出版社の文庫の発売日を把握しているほうが異常なのだ。

 


コンテンツはたぶん悪くない

ここまで書いたところでそれぞれを振り返ってみると、すべて「届いていない」という話をしている。つまり、問題はコンテンツにあるのではなく、流通の問題あるいはプラットホームの問題だよなと思う。

漫画村が大きな社会問題になることだって、漫画というコンテンツそのものに抜群の集客力があるからこそ起こりうる話だ。

 

「情報が届く」ということがどれほど大事なことであるか。

出版社も書店も取次も、本屋の店頭以外で読者にアプローチする明確なプラットホームを持っていないのが現状。例えば音楽サイト・ナタリーの文芸版があれば、もっとSNSの中で書籍や文芸の存在感が増すのになぁといつも思う。

テレビで紹介される機会を待っている状況は、やっぱりおかしいじゃないか。

届かないことや読まれないことは、とにかく恐ろしい。

余談だけど、この前読んだ文化通信(というメディア系の業界新聞)に、新聞社や出版社によるシンポジウムの記事が載っていて、その中で某新聞社の社長さんがネットニュースサイトのことを「ニュース泥棒」と表現していた。まじかって感じだ。泣ける。

 

 

いつも中学生や高校生のことを考えてしまう

noteに書いた記事でもそうだったけど、そもそも何故ぼくがやたらと中高生にこだわっているかというと、ぼく自身が中高生の頃に読書をしてこなかったからだ。

ぼくの実家には本棚がなくて、家族の誰も本を読む人ではなかった。夏休みの読書感想文は、毎年同じ本で書いていた(昨年の原稿用紙を残しておいて毎年少しずつアップデートするのだ。なまけ者のライフハックである)。
自分の思考をもっと言語化したいなぁなんて思って、10代半ばくらいから読書を始めた。 そこで読書という発想になったのは、綿矢りさ芥川賞を受賞したときのインパクトが頭に残っていたことが大きい。ぼくの同世代にはそういう意味での綿矢チルドレンがたくさんいるし、きっと近い将来に又吉チルドレンが数多く現れるんだろうなと思う。

 

文章を書くお仕事をもらうようになってからは、編集者さんとやり取りする機会が増えた。編集者さんと話すたびに「子どもの頃からたくさん本を読んできた人たち」には追いつけないと感じる部分がある。劣等感とはまた違うんだけど、真っ向勝負すると負けてしまう気がする。(まぁそもそもぼくは真っ向勝負するような性格ではなく、逆張りしたり差別化を図ったりするのが好きなタイプなのだけど)

そんな優秀な彼らになくて自分にあるものは一体なんだろうかと考えると、たぶん「読書以前/以後で世界の見え方が大きく変わることを知っている」という点が一番大きいように思う。

言い方をかえると、より広くポップに開かれた考え方ができること。業界やクラスタの中だけではなく、その外側の世界へ届かせることを意識できることだ。

実際、ぼくのブログははてなブログ界隈以外の人たちに届くことを意識しているし、絶歌の記事月が綺麗ですねの記事などはまさにその代表例だ。特に後者の記事は、大学教授からプリクラアイコンの学生たちにまで届いていた。ぼくの理想に近い跳ね方だった。

 

何が言いたいかというと、小説にしろ音楽にしろ映画にしろ創作活動にしろ、カルチャーに手が届いていない中高生の姿はいつかの自分の姿に他ならず、彼ら彼女らにそのきっかけを作っていくこと、それを加速させることが自分の仕事なんじゃないかと思うのだ。

電車の中で、自分の勤めている書店のカバーで本を読んでいる高校生の姿をたまに見かける。それを見て嬉しくなるのは、たぶんそういうことだ。

その姿を見るたびに、きみの手の届くところに本屋があってよかった、なんて本気で思っていた。

 

 

創作とインターネット

ぼくはたまたま大阪に生まれて、ちょっと遠いけど足を伸ばせば大きな書店がいくつもあった。
しかし、書店のない環境で、本に触れるきっあけも習慣のない彼ら彼女らが、一体どこで「カルチャーに触れるきっかけ」を作ることができるだろう。
それは図書館かもしれないし、セブンイレブンかもしれないけど、ぼくはやっぱりインターネットに賭けたい。

本とインターネットの話を持ち出すとどうしても紙か電子かという二項対立になりがちなのだけど、そんな話はもうナンセンスであるし、電子書籍云々だけの話ではない。

小説を読む行為も、小説を書く行為も、小説に出会うきっかけも、そういう創作に関するあらゆる活動のすべてが、iPhoneの上でもっと展開されるように仕掛けていくことが、文芸が真っ当に生き残っていく道ではないかと思う。

この記事は書店員退職エントリなのであえて小説に限って話を展開したけど、本当はあらゆる創作活動がそうあってほしい。

小説を書くことも、絵を描くことも、歌を歌うことも、インターネットでもっとドライブさせることができると思う。YouTubeSoundCloud、Pixiv、instagram、Blogなど、創作物を気軽にお披露目する場所は整備されつつある。

別にレコード会社の目に留まってメジャーデビューなんて夢を持たなくても、自分の作る音楽を待ってくれる人が2、3人いれば趣味としては成功だと思う。

そういう意味ではこのブログも今はとても楽しいし、アクセスがそう多くなくても「潮見さんのブログだー」って読んでくれる人がいる。褒めてくれる人もいる。とても嬉しい。 

インターネットがある時代だからこそ、“消費する趣味”ではなく、何かを“創作する趣味”のほうが大きな意味を持つ。

ぼくの願う“社会の豊かさ”は、きっとそういうものだ。インターネットはきっとその役割を担っていけるし、昔の自分のような人間に対してちゃんとカルチャーの存在や情報が届くようなものを作っていきたい。

 

 * * *

 

いやもう結構序盤で書店員退職と関係なくなっちゃってるよ!というハライチ澤部の声が聞こえてきそうなので、そろそろ終えることにする。

これが退職エントリなのか、暑苦しい演説なのか、あるいは転職活動なのか。もう自分でもよく分からないけど、今はそんな感じです。

以上です。

  

退職エントリってこんなんでしたっけ。

<了> 

 

第159回芥川賞候補作の感想と予想

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第159回の芥川賞候補作を読みました。

高橋弘希「送り火」(文學界5月号)

町屋良平「しき」(文藝夏号)

古谷田奈月「風下の朱」(早稲田文学初夏号)

松尾スズキ「もう「はい」としか言えない」(文學界3月号)

北条裕子「美しい顔」(群像6月号)

 

全体的な印象として、掲載誌と作家の文体がそれぞれ共鳴しているようで、ゆえにどれも高い純度に仕上がっているのかなと思いました。町屋良平は文藝らしいし、高橋弘希は文學界らしくて、古谷田奈月は早稲田文学らしかった。そして、名前を挙げたこの三者が、今回の受賞の有力候補かなと予想しています。

 

送り火

送り火

送り火

 

 「掲載誌と作家の文体がそれぞれ共鳴している」と書きましたが、特に高橋弘希はもともと芥川賞らしい古典的な文体であるし、芥川賞の傾向を知っている読者からすれば、『送り火』の物語構成は「あ、芥川賞狙ってるな…」とはっきりわかるような作品になっていました。芥川賞と共鳴している、という点においては高橋弘希がずば抜けているかなぁと思います。

ただ、田舎のコミュニティに関する書き方や暴力の扱い方には様々な異論がありそうで、選考会のなかでどうなるかは不明。高橋弘希は遅かれ早かれ芥川賞とるだろうと思っているのですが、もう4回目の候補なんですね。そろそろとってくれ…。

 

■しき

しき

しき

 

ぼくの受賞予想は町屋良平『しき』です。多少読みづらさはあるものの、それは文章の拙さではなく意図的な仕掛け。褒め言葉ではないのかもしれないけど、文藝出身作家らしい洗練された文章でとても好みでした。文藝出身作家が好きなんですよ…。

「思考」と「身体的な運動」がうまく連結せず、アンビバレンスな感情や踊りたい欲求が疼く様子は、デビュー作『青が破れる』のそれよりもはるかに丁寧だと感じました。これが受賞してくれたら嬉しい。

特に誰も言及してないけど、ラストシーンがとても美しくてよいです。

 

■風下の朱 

無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)

 

古谷田奈月の作品を読むのは初めて。芥川賞というよりも三島賞っぽい作品だなと思って読んでいたのですが、どうやら前作で三島賞をとっているんですね。

女性だけのホモソーシャルな空気感?が京アニの日常系アニメを彷彿させる。野球選手になるためには、自身の女性性から逃れ続けなければいけなくて、でも逃げられるものではなくて。性との向き合い方に哲学を見出し、それを小説に落とし込む技術は途轍もない力量だなと思いました。仮に今回の芥川賞を受賞しなくても、長く活躍し続ける作家だと思います。

 

■もう「はい」としか言えない

とにかくおもしろくてザクザク読める。松尾スズキを読むのも初めてだったのですが、なるほど本谷有希子はこういうところを受け継いでいるんだなぁと、特に序盤はそんなことを考えていましたが、最終的にとんでもない地点まで飛んでいくパワーは松尾スズキの力量、というかやんちゃさ。

とてもおもしろいですが、他の候補作を見渡すと「もっと他に受賞するべき作品があるだろ…」と思えてならないので、受賞は難しい気がします。

 

■美しい顔

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

盗用に関する騒動は一旦横に置いていくとして。

読みながら何度も泣いてしまいました。読み進めるのがつらいくらい。しかし、小説を読んで泣くというより、実際にあった震災のことを思って泣く、という感触でした。NHK朝ドラ『あまちゃん』が始まったときにも考えていたことですが、「あの震災をわざわざフィクションで描く意味」について、未だにぼくは腑に落ちるような答えが見つけられていないようです。(NHKでよく流れる『花は咲く』という歌すら苦手だ…)

小説の終盤、登場人物に作家の考えをそのまま長台詞で喋らせているところなど、たぶん小説の技術としては他の候補作に比べて劣る点が多いものの、それでも読者の心を動かすだけの熱量が確かにあって、そういう力をもっとも感じる作品でした。盗用どうこうは別として、そこはちゃんと評価されてほしいと思います。

 

* * *

 

最初に書いたように、有力候補だなと思うのは高橋弘希『送り火』、町屋良平『しき』、古谷田奈月『風下の朱』です。そして、どう転がるか分からない北条裕子『美しい顔』。

個人的に受賞してほしいのは町屋良平。『しき』は「文藝 夏号」に掲載された作品なのですが、その雑誌の目次についていた見出しが、この作品をうまく表現していると思いました。

未熟なこころで「踊ってみた」春夏秋冬

こういう作品が、たとえば主人公たちと同世代の読者などに届けば、純文学好きからすればとても嬉しい。芥川賞、踊ってみた、尾崎世界観。届く準備はできていると思います。

<了>

しき

しき

 
送り火

送り火

 
無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)