慶多くんの好きな季節はなんですか?
夏です。
今年の夏には何をしましたか?
お父さんとキャンプへ行って、凧揚げをしました。
お父さんは、凧揚げお上手ですか?
とても上手です。
是枝裕和監督作品『そして父になる』の冒頭は、私立小学校の入学面接のシーンから始まる。
面接官と向かい合ってお行儀よく座っている男の子は、「野々宮慶多です」「6歳です」「誕生日は7月28日です」と自己紹介をする。
慶多を挟んで座っているふたり(福山雅治、尾野真千子)が夫婦関係であることはなんとなく察せられるし、慶多がふたりの子どもであるということは誰の目にも明らかだろう。一瞥しただけで3人の関係性が分かり、しかも私立小学校の面接を受けていることから裕福な家庭であることが予想できる。
「面接」というシーンから始まることによって、視聴者は登場人物の情報を自然な流れで頭にインプットすることができる。
これほど多くの情報をワンシーンに詰め込んでおいて野暮ったい表現にはならないのは、是枝裕和監督の力量とセンスだからこそ成せる技なのだろう。
上で引用した会話文は、そのシーンで交わされる慶多と面接官のやり取りなのだけど、実は慶多もお父さんも本当はキャンプには行っていないし、凧揚げもしていない。
この日のために通っていたお受験塾の講師からそう答えるようにと教わっていたのだ。面接終了後にそのことを知った福山雅治は、「大したもんだなお受験塾っていうのは」と感心する。映画の主題となる「父と子の距離」も、この科白に暗示されている。
2013年に公開された映画『そして父になる』。6年間育てたひとり息子・慶多が、出産した病院で取り違えられた他人の子だと判明する。育ての子か、実の子か。子を取り違えられた二組の夫婦は、互いに交流を深めながら、答えのないような果てしない問題と対峙し、葛藤していく。
ぼくはこの映画に「夏」を見た。夏をテーマとした映画ではないが、「父と子の距離」をめぐる中で重要になってくる季節こそが夏なのだ。そしてそれは、ぼくたちが過ごしてきた夏、あるいは過ごせなかった夏ともどこかで繋がっている問題でもあると思う。
生活
順調に成功者としての人生を歩んでいた野々宮良多(福山雅治)の家庭と、町の小さな電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家庭は、何もかもが対照的だ。
それは特に裕福さという点において、住宅や料理、自家用車などに両家の違いが顕著に現れる。ホテルのようなタワーマンションと寂れた電気屋、黒い高級車と白い軽トラ、一眼レフと安っぽいデジカメーー数えればキリがない。
野々宮家と斎木家は家族ぐるみの交流を重ね、週末だけ相手方の家に子どもを寝泊まりさせることになる。野々宮良多はそれを「慶多が強くなるためのミッション」「大人になるためのミッション」だとして慶多に説明する。
それぞれが育ての親のもとを離れて、実の親のもとで夕飯を食べるのだが、琉晴は野々宮家で高級なすき焼きを振舞われ、慶多は斎木家でホットプレートで焼いた餃子を斎木一家とともに囲む。
対照的でありながら、そこには単純には比べられない明暗があって、そのコントラストに観ていて心苦しくなる。
どちらがおいしいのだろう。どちらの料理が、どちらの子にとって、おいしいのだろう。
慶多という少年はいかにも育ちの良さそうな大人しい男の子であるのに対して、琉晴は育ての父と同じ関西弁で喋るやんちゃないたずらっ子だ。ストローを噛む癖まで育ての父に似ている。
しかし、やはり育ての両親とは似てないところもあって、それは入れ違いが発覚したあととなるとより大きな違いとして浮き彫り立ってくる、ように親には思えてしまう。
育つ環境というのはその子の性格を形成する大きな要因のひとりであるが、それと同じくらい血の影響は大きく、またそれが持つ意味も重い。
両家の生活水準の高低差を感じるたびに、ぼくはこの映画を観ながら「自分の家庭・生活はどのへんに位置するのだろうか」と心の隅っこでこっそりと量ってしまう。子の入れ違いという特殊な状況でありながら、観ている自分も他人事にはならないのは、なんとなくそういう意識が働くからかもしれない。
ちなみに、うちはどちらかと言えば斎木家寄りだ。ストローは噛まないように気をつけている。そうさせるのは、育った環境だろうか、血だろうか。
誰が何になるためのミッション
慶多が「大人になるためのミッション」として斎木家で楽しく過ごす一方で、琉晴は野々宮家で退屈してしまったため早めに打ち切り、慣れ親しんだ斎木家へと帰ってしまう。
野々宮夫婦は、慶多を手放すことに現実味を帯び始めている状況に、そして実の子である琉晴と親しくなれないでいることに苦悩する。
特に野々宮良多は琉晴とうまく接することができず、妻とのあいだにも軋轢だけが生まれてゆく。しかしその亀裂は、子どもの入れ違いが発覚する前から積もり積もったものであり、父として家庭を顧みなかった過ちがそれをきっかけに露呈していっているのだ。
野々宮良多は慶多に対して「子どもの交換」を「大人になるためのミッション」と説明しておきながら、実のところそれは「野々宮良多が父になるためのミッション」でしかなかったことを徐々に実感してゆく。
「子どもの交換」は、視点を変えれば「親の交換」である。
架空の夏を追う
映画の終盤、子どもたちが相手方の家に慣れ始めた頃に、子どもは正式に交換されることが決まる。
野々宮家は慶多を手放し、琉晴を引き取る。斎木家は琉晴を手放し、慶多を引き取る。
交換が決まったあと、最後の思い出という雰囲気の中で、野々宮家と斎木家は一緒に川辺でバーベキューをする。
斎木家が用意したであろう凧を河原で揚げようとするが、その川辺には鳥が来ないようにネットが張っており、凧揚げができない仕様となっていた。
慶多くんの好きな季節はなんですか?
夏です。
今年の夏には何をしましたか?
お父さんとキャンプへ行って、凧揚げをしました。
お父さんは、凧揚げお上手ですか?
とても上手です。
家族でキャンプへ行った夏の思い出も、凧を上手に揚げる父親の姿も、現実には存在していなかった。
そんな架空の夏を追うように、最後の最後で川辺にやってくるが、凧は揚げられない。架空の夏はやはり架空で、慶多に嘘を吐かせたままに、親子の夏は終わる。
思えば、夏という季節は「何かを思い描いては達成されずに終わる季節」だ。
現実の夏よりも、思い出の中の夏のほうがずっと美しく、「こうあればいいな」「こういう夏を過ごしたいな」と想像する夏は更にもっと美しい。だけど、それは大抵手が届かない。
好きな男の子と夏祭りに行く妄想をする女の子の夏、地区予選2回戦敗退の野球部員が想像する甲子園の夏、父親とキャンプへ行く空想をする6歳児の夏ーー
架空の夏を追い、手が届かないままに夏を終える。
ゆえに夏の終わりは物悲しく、やり損ねた何かに思い焦がれてしまう。
『そして父になる』という映画は、過ぎ去った季節を描きなおす物語だ。
父として慶多と向かい合えていなかった「空虚な6年間」、実の子と過ごすことのできなかった「欠落の6年間」。時間はもちろん不可逆だけど、季節は何度でも巡る。まったく同じでなくても、また違うかたちで夏を描きなおすことはできる。
ぼくらは何度でも架空の夏を追う。それはたぶん、希望なのだと思う。
<了>
画像:(https://twitter.com/soshitechichi/status/383520903901872128 より)