無印都市の子ども

まなざしのゆくえ

平成生まれの僕が観た、小沢健二の魔法的な夜に

 

飛行できない君と僕のために

神は死んだ――フリードリヒ・ニーチェがそう言ったのは19世紀末、そこから100年が過ぎて、神様はいろんなところにいろんな形で点在するようになった。

若者たちが「〇〇は神!」と謳う現状があって、その崇められる対象は有名人であったり友達であったり、企業であったり創作物であったり、はたまたコンビニで売られているチョコレートであったりする。そんな私の神様たち。

その言葉は「あなたがどのように見てどうのように考えているかとは無関係に、少なくとも自分にとってこれは絶対的なもの(=神)なのだ」という宣言に他ならない。

それを踏まえて、僕には2人の神様がいる。

1人はBUMP OF CHICKEN藤原基央

もう1人が、小沢健二だ。

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小沢健二の魔法的な夜を観てきた。

そもそも僕が最初に彼に惹かれたのは、ソロ活動「小沢健二」ではなく「The Flipper's Guitar」の楽曲からだった。圧倒的に好きになったアルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』は1989年の作品、『CAMERA TALK』は1990年。僕はまだ生まれてもいない。

ソロ活動「小沢健二」の絶頂期を僕は知らず、僕が音楽に興味を持ち始めた頃にはすでに彼はテレビから姿を消したあとだった。兄の部屋から漏れ聞こえてくる音楽の中に小沢やFlipper's Guitarはおらず、いつもglobeだった。

なので、僕にとって小沢健二は、Youtubeの中の人、あるいはWebや古い雑誌のテキストの中の人だった。

 

調べてゆくにつれ、Flipper's Guitarの音楽的なセンスは、小山田圭吾の才能によるところがウエイトをかなり占めていると判明していく。

小沢健二の書く歌詞は嫌いではないが、特別迫るものを感じるということはなかった。小沢の書く歌詞は文学的だと評価されていることに、常に違和感があった。

ソロの楽曲に至っては「それサムくないか…?時代か?時代のセンスの問題なのか?」と思うようなフレーズも数多く存在する。『笑っていいとも!』でタモリさんが絶賛したという歌詞は、そこのフレーズだけで完結するものではなく、それまでの小沢の楽曲、それまでの小沢健二の生き方を踏まえた上での評価だと僕は認識している。

 

だけど、それでも僕は彼に惹かれる。

今自分がどっぷりと浸かっている音楽や文学の多くが小沢健二の影響を受けていることが分かり、知らず知らずに自分も間接的に彼の影響を多大に受けていたのだというのは紛れもない事実として、割と衝撃的だった。

この時代における「かっこいい」とはどういうことかを彼は知っている。わくわくするものがどこにあるのか、方角を教えてくれたように思う。

だから僕にとって小沢健二は王子様ではなく神様なのだ。

 

 

魔法的 - ベーコンといちごジャムが一緒にある世界へ

前置きが長くなったが、ここから『魔法的』な夜について。

20年前に胸を踊らせて『ラブリー』なんて聴いていたであろう元少女たちは古い楽曲のイントロが流れる度に歓声を上げていたが、僕は主に新曲について書こうと思う。

01. 昨日と今日
02. フクロウの声が聞こえる(新曲)
03. シナモン(都市と家庭)(新曲)
04. ホテルと嵐
05. 大人になれば
06. 涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)(新曲)
07. 1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)
08. それはちょっと
09. ドアをノックするのは誰だ?
10. 流動体について(新曲)
11. さよならなんて云えないよ
12. 強い気持ち・強い愛
13. 超越者たち(新曲)
14. 天使たちのシーン
15. 飛行する君と僕のために(新曲)
16. ラブリー
17. その時、愛(新曲)
<アンコール>
18. シナモン(都市と家庭)~フクロウの声が聞こえる(新曲)

(ナタリーより転載) http://natalie.mu/music/news/188541

 

全17曲のうち7曲が新曲。

演奏が始まる直前、あるいは前奏の際に、スクリーンに新曲の歌詞が映し出される。それらを読んで「あぁやっぱりこの人は文学の人だ」と感じた。

「最近のJ-POPの歌詞は幼稚で中身がからっぽだ」と吐き捨てるように言う人がたくさんいる。それはただ、ざっくり言ってしまうと、J-POPの歌詞に「文学の言葉」を求める人が少なくなったという話であって、文学よりももっと「口語的な言葉」が求められているだけだと僕は思っている。

求められる歌詞が変われば、紡がれる歌詞も変わる。そうすればヒットチャートも変わってくるのは必然なこと。

爆笑問題西野カナの歌詞との引き合いに、小沢健二の歌詞を持ち出したことが象徴しているように、今のアーティストである西野カナは「口語的な言葉」であり、小沢健二は「文学の言葉」である。そこに優劣はなく、ただジャンルが異なる。


小沢健二の新曲の歌詞はそういう意味で古い、つまり文学的だった。

歌詞を読んで想起するのはやはり海外の作家たちで、特にサン=テグジュペリ(フランス)とリチャード・ブローティガン(アメリカ)だ。

例えば『フクロウの声が聞こえる』には、ブローティガンの『西瓜糖の日々』のような、この世だけどこの世じゃないような奇妙な浮遊感があり、サビの最後には「いつか本当と虚構が一緒にある世界へ」といったような“この世の摂理では有り得ない世界”を夢見る。

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

 

 この本の翻訳している藤本和子は、翻訳家・柴田元幸に多大な影響を与えた人物で、その柴田のゼミに在籍していたのが大学時代の小沢健二柴田元幸村上春樹の翻訳の“元ネタ”は藤本和子にあると僕は思っている。ぜひ読んでみてほしい。川端康成三島由紀夫のような日本文学的な文章とはまた異なる種類の<美しさ>が藤本和子の翻訳にはある。

 

そんな新曲たち、その中でもやはり『フクロウの声が聞こえる』と『飛行する君と僕のために』の歌詞には切実なものを感じた。

文明とか資本主義、軍事とか産業とか広告とか――小沢健二がこれまで何をどう考えて、今どういうところに着地して言葉を紡いでいるのか、僕には分からないけれど、新曲の中で大いに語るのは<世界はもっとこうあってほしいという大きな思想>から<せめて自分の周りだけはこうでありたいという小さな苦悩や理想>までのその狭間だと思っている。言い換えればそれは<都市>から<家庭>まで。

あぁなんかすげえ自分のブログタイトルとリンクしているなぁと思って、間接的に受けた小沢健二の影響のそのデカさを思い知ったし、言葉の語源を知ったときのような小さな驚きと納得感があった。

 

 

飛行できない君と僕のために

記事の最初に挙げた、僕にとってのもう1人の神様である藤原基央はこんな歌詞を書いている。

飛ぼうとしたって 羽根なんか無いって知ってしまった 夏の日

『Stage of the ground』 - BUMP OF CHICKEN

 

飛行。

小沢健二は飛べるのだろうか。

きっと飛べない。今も昔も飛べない。

だからこそ「魔法」。

 

その魔法は本当に「魔法」だろうか。

きっと違う。魔法なんてないから、あくまでも魔法“的”なのだろう。

魔法的なものを魔法だと言うのは簡単で、でもずっとは騙せないから、最後にはちゃんと「日常に帰ろう」と彼は宣言する。

 

2時間だけの嘘をつく小沢健二

騙されている間だけは、僕たちは魔法が使えたし、夜空だって飛べたのだ。

飛行できない君と僕のために、『飛行する君と僕のために』はある。

<了>

MONKEY Vol.6 音楽の聞こえる話

MONKEY Vol.6 音楽の聞こえる話

 

小沢健二のライブレビューは良い記事が多い。非常にグッド。